ある朝、高田郡志が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一人の小さな人間に変わってしまっている事に気付いた。
彼は絹のように柔らかい背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、二つの豊丘がこんもりと盛り上がっている、自分の肌色の胸が見えた。胸の盛り上がりの上には、掛け布団がすっかりずり落ちそうなって、まだやっと持ちこたえていた。
普段の大きさに比べると情けないくらいかぼそい四肢が、目の前にしなやかな曲線を描いていた。
「俺はどうしたのだろう?」
それは夢ではなかった、自分の部屋、少しオタク趣味があるがまともに整理された部屋。テーブルの上には会社の資料が広げられていた。
そのテーブルの上方の壁にはポスターが掛かっている。描かれているのは一匹の雌ドラゴンで、郡志の推しているアニメの主人公である。
こんな馬鹿馬鹿しい事は忘れてもう一度寝ようとしたが、身体に見合わぬ枕に上手く姿勢をとることが出来ない。
諦めてスマホに手を伸ばし――それは今の身体にしては大きく重くあったが、操作自体は可能だった――自分の姿をカメラで写してみた。
そこには一人の人間が写っている。
俺はヒトナーではなかったが、オタク趣味に明るいこともあり、それが人間のメスであること、それも余り年嵩の行っていないことも分かった。
それでも自分が狂っているのではないかという疑いを捨てきれない――なんならこれが夢であって欲しかった。
なので、同じ市内の友達の雌ドラゴンに写真を送ることにした。
彼女は両親から受け継いだ土地とマンションから収入を得ていて、殆ど仕事らしい仕事などしていなかった。雌ドラゴンとしての性格的な色っぽさはなかったが、それでも気取ったところのないいい奴で、よく連むことがあったのだ。
「涼、どうしよう? 朝起きたらヒトになってた」
涼は写真を受け取ると、最初悪質な悪戯かと思った。どこかで拾ったCGと自分の部屋の写真をコラージュしたものなのかと。
だが、その少女の画像は、画像検索をしてもヒットするものはかった。
そもそも、彼女は隠れヒトナーで、人間とかヒトとか、ヒューマンとか言う言葉には敏感だった。その自分がこんなにクォリティの高いCGを見逃す筈もない。
ヒト――それは一万年前に滅びたサル型の知性生物だ。今、この世界に生きているドラゴンは、このヒトが遺伝子操作によって作り出したものだと言われる。しかしあまり多くの情報は残っていない。
残っていない理由は二つあり、一つは苛烈な戦争により人類が自滅したから。もう一つの理由は、我々の始祖が人類への反省から、多くの遺物を破棄したからである。
現状、我々の知りうる情報は少ないが、ニホンと言う国の情報を後生大事に持っていたドラゴンの一族のお宝や、稀に発掘される品々から得るものは、朧気ながらヒトの姿を我々に伝える。
ヒトナーは、こうしたヒト種に対して、耽美的な幻想を抱いている連中で、もっと端的に言えば性的な魅力さえ感じている連中の事だ。
涼は少し遅れて、「すぐいく」と言うと、本当に急いでやってきた。
扉を開けようと玄関に行くが、ノブが随分と高い位置にある事を感じた。
手を伸ばし錠を上げると、涼は勢いよく扉を開けた。
マンションのドアを前に、彼女は硬直した。
その時間は恐らく一分程度であったが、しかし、何十分にも感じた。
涼は、「これは大変なことになったな」とつぶやき、そして、一思案すると、何処かに電話をかけ始めた。
取り敢えず部屋に戻る。
見渡せば見渡すほどあらゆるものが巨大に思えた。
ドラゴンの平均身長は雄が二メートル半、雌が三メートルぐらいだ。それに対して、今の自分の身長は一メートルと少しばかりだ。
涼は助っ人を呼んで、そして折角だからと写真を撮り始めた。
「おい、やめろ。裸なんだぞ!」
俺は必死に叫んだが、彼女に腕力で勝てる筈もなく――それどころか、やや蕩けるような表情を見せたので、戦慄するしかなかった。
いつもクールな印象のある彼女が、こんなにリビドー剥き出しの表情をするだなんて思いもしなかった。
具体的に酷い目には遭わなかったが、身体の各部をすっかり写真に撮られてしまった。
そうしている間に、もう一匹の雌ドラゴンが部屋を訪れた。
栞と言うそのドラゴンは、雌ドラゴンにしては小柄で若かった。
聞けば大学で人間学の研究をするドラゴンである。
「栞は凄いんだよ。飛び級で進学して、今、准教授だからね」
涼はやや得意気な顔をしていた。栞は「ちょっとやめてよ」と言うが、笑顔は失っていない。
また厄介なドラゴンが来たのだなと思ったが、彼女は姪っ子の服を持ってきてくれた。子供向けてはあるが、子供っぽさの少なめな衣服を着させてくれた。
尤も、尻尾穴がああるので、お尻の上半分が見えてしまっているのだけど……
そして、服着せたら彼女もまた俺の写真を大量に撮りまくった。
さて、涼も栞も俺の姿を十分に堪能すると、「君、女の子だから、言葉遣いに気をつけた方がいいよ」と微笑まれる。二匹のメスケモの嬉々とした表情が怖い。
それから二匹と一人で大学の研究室へと向かう。
そこは郊外の丘陵地に立つキャンパスの広さと美しさを誇っている大学である。
彼女の研究室は去年移ってきたらしく、まだ新品の建材の匂いがする。
丈の高い椅子にひょいと載せられる。
「犬用の注射器だけどちゃんと殺菌されているから」
栞は優しく微笑む。
「犬用?」
俺が訝しむと、「ドラゴン用だと太くて血管ボロボロになるよ?」と言われる。
流石に私の表情も歪んだのだろう。「心配しないで」と、彼女は鼻歌交じりに採血をした。
その後は、身体測定や知能検査が待ち構える。
彼女の研究室は雌ドラゴンが多くて、対応してくれたドラゴンは雌ばかりであったので、ちょっといい気分にならないではなかった。
私はそれが終わると栞の部屋に通された。
様々な書籍がところ狭しと詰め込まれ、学会のお土産だろう産物がちょこちょこと並んでいる。
彼女の趣味だろう。人間の人体モデル――と言うよりか、等身大フィギュアが異様な存在感を放っていた。
私は最初、キョロキョロしながら待っていたが、彼女は必死でパソコンに向かうばかりであった。
暫くして、「ああ、ごめんね。気遣いできなくて」と笑うと、そのタイミングで学生の雄ドラゴンがテイクアウトのピザを持ってやってきた。
「ありがとう、いくらだった?」
栞は使いっ走りの生徒に代金を支払い、ピザと飲み物を受け取った。
「人間の身体でも味覚が変わらないといいけど……」
私は大きなピザの一切れを貰い、もそもそと食べ始めた、
大きい。ドラゴンであった時分はこんなのを何切れも食べていたのだが、今は一切れ食べるのもしんどい。
半分と少しぐらいを食べたところで「美味しいけど、お腹一杯」と言うと、栞は微笑んで「身体が小さいからね」と笑った。
続けて、「チーズも小麦も肉類も食べられる筈だから、多分大丈夫の筈」と言うので、もし違ったらどうするつもりだったのだろう? と恐ろしくなる。
それから数日、私は栞の家と研究室を、栞に連れられて往復する日々を送ることになる。
あらゆるものが大きいので、お風呂に入るのも栞と一緒であったし、ベッドは子供用のものを用意された。
お風呂は、流石に雌ドラの裸体を見られると喜ばないではいられなかったが、むしろ彼女が俺の身体を慎重に――否、しつこく洗うので、徐々に怖くなって彼女の身体がどうこうと思う事はできなくなった。
「もう少し待ってね。ちゃんと根回しが済んだら記者会見するから」
翌日から、栞の元へ様々な偉そうなドラゴンが訪れ、私は品定めのような観察を受けて過ごすばかりだ。
彼女は得意気であった。そして、実際優秀なドラゴンであったのだ。
第二話
※ドラゴンの世界では、日本語に似た言葉が使われておりますが、主人公とか犯人とかそういう言葉の"人"はドラゴンを意味する言葉に置き換えられています。またにんべんを伴う感じもそれらしい字に置き換わっております。
ああ、まさか、憧れの"人間"が目の前に現われるだなんて思わなかった。
鱗のないすべすべとした肌。柔らかい胸やお尻。翼のない背中。
小さい身体に、弱々しい腕や足。鋭さのない爪。
平たい顔に牙のない歯。くりくりした眼。角のない頭。
全てが可愛く、慈しみを感じる。何処までも守ってあげたくなる!
私がヒトナーを拗らせたのは幼稚園児の頃だ。その時期にやっていたファンタジーアニメに人間のキャラクターにド嵌りしたのだ。
ただただ、可愛くか弱く全く非力であったが、仲間達をまとめる魅力ある人物であった。
これが戦争で滅びた(と言われている)人類に対する皮肉だと知るのは、随分後の話だ。
しかし、その歳の自分には、本当に可愛くて抱きしめたいと言う気持ちしか起こらなかった。
勿論、今でもそうだが、ヒトナーと言うのは一般的に公言しにくい趣味である。
それでも、イラストや漫画を集める日々や、ヒトナーを集めたイベントに参加するなど充実はしている。
ヒトナーの中には、人型をデフォルメしたキャラクターの着ぐるみを着るドラゴンもいる。
確かに可愛いが、それを可愛いと感じるのもヒトナーぐらいなのだろう……
この前、酷い目に遭った。ヒトナー垂涎のアニメと言われたのが、短いマズルでヒトミミが付いたドラゴンだったのだ。随分とガッカリした。
だが、ヒトナーの中にはそれぐらいがちょうどいいと言うドラゴンもいるし、なんなら設定上人間の血が流れていると言う微妙な設定のお話しが好物と言うドラゴンもいる。
ヒトナーの中も複雑なのだ。
私はと言うと、ヒトナーとしては割と過激派なんだろう。
まさに、この子のような正真正銘の人間の形をしたキャラクターしか認めなかった。
そこまでするヒトナーは少ないので、作品の供給量は少ない。
そういうところが、私の人間学へと向かわせたのだ。
十年前の"水晶板の再発見"は我々の研究を一気に忙しいものとした。
私としては、とんでもない素材の供給に狂喜乱舞した。
情報を整理、分類することを論文にしたぐらいだ。
それからもう、ずっと図画や文章を読んで、人間と言うものの理解を深めている。
彼等は、今の我々と同じような事を考え、恋をし相手を愛し、子を産み育んできた。そういう同一性は心に染みる。
我々とて愚か者ではないだろうか? 彼等から学ぶべき事は本当に多い。
かつては、単に可愛いと言う気持ちだけだったが、今は人類の全てを愛せそうだ。
そして、目の前にその人間がいる。
第三話
「ところで、俺の会社は?」
色々な事が起こりすぎて、頭が回っていなかったが、変身のあったその日は大事な商談があったはずだ。
「大丈夫大丈夫、私が全部上手くやったから。あと、親御さんにも許可を取ったから大丈夫」
栞は上機嫌だった。
「何が大丈夫なのか教えろよ!」
俺が強く尋ねると、栞は改まって答えた。
「会社は退社になりました。ご家族には私が養うと伝えましたので、何も気にせずにいて大丈夫です」
流石に横暴だと思ったので、「いや、勝手に何してるんだよ!」と怒鳴ったが、流石に人間とドラゴンでは威勢が違う。栞はうっとりしたような顔で俺を見つめると、暴れる俺を無視して抱きしめた。
「外には怖いドラゴンが多いけど、私が絶対に守るから」
勝手に感傷に浸っている。
「怖いドラゴンって何なの!?」
彼女の胸の中で暴れながら叫ぶと、「そりゃぁ、ヒトナーとか、実験台に使いたい奴とか、研究の成果にしたい奴とか……」と答える。
ひょっとしてこのドラゴン、自分で全部が当てはまっているのではないか?
戦慄したが、しかし、現状、頼れそうなのは栞と涼の二匹ぐらいであった。
確かに怖い目には遭っている。
ある日、栞が席を外した時、学生らしいドラゴンに「准教授が呼んでいる」と言われて誘拐されかけたことがある。
その時は、栞の研究室の学生が見掛けて、警備員を呼び出しての大騒ぎになったぐらいだ。
犯人の指示者はゴロツキであったが、その先にどのようなドラゴンがいたのかは不明なままであった。
それ以来、栞は私とべったりで、空を飛ぶことがめっきりなくなったようだ。
ドラゴンと言えば空を飛ぶ生き物であるが、疲れる事や服が皺くちゃになる事、荷物が運べない事などを嫌って、近頃は自動車も列車も飛行機も使われるようになった。
それに、ドラゴンが都市を造り生活するようになると、空もめっきり狭くなってしまう。
結果として、五キロメートル以上の飛行はフライトプランを提出するように求められるようになった。
こういう現状に嘆くドラゴンは少なくないが、ドラゴンが増えすぎてしまった今、後退することは出来ないのだ。
そういう訳で、今日は栞の授業を学生に混ざって見学することになった。
今まで関わりのなかった学生達が、好奇の目を向けてくる。
人間学部なのだから、人間の姿に興味があるのは当然か。
人間学はややマイナーな研究である。
当世に於いて、我が国で積極的に研究しているのは当大学のみで、大きく研究は進んでいない。
世界的にも研究が進まないのは、我々ドラゴンの歴史によるところが大きい。
人類がどういう事情で滅びたのか、詳しい事情は未だに判明していないが、彼等の文明的痕跡が悉く破壊されてしまっているところを見るに、戦争によるものだと言うのが、従来からの一般的な説である。
我々がこの地上に現われたのは、その頃である。
伝説では、神が地上に使わした事になっているが、近年の遺伝子研究によると、人工的に我々の遺伝子は"作られた"事が判明している。
実際、それ以前に我々につながり得る生物の痕跡は存在していない。
なので、恐らく、人間が我々を作り出したのは間違いないようだ。
この当時、どのような啓示があったのかは分からないが、それ以降、八千年ほど、我々ドラゴンは、地上から人類の痕跡を消す努力を続けてきたのは周知の事実である。
ドラゴンが地上に降り立った当時から、我々は宗教を持ち、農耕牧畜を始めていた。これは遺跡を調べればすぐに分かる事だ。一番早い時期は我が国であったことも判明している。
さて、この智恵はどこからもたらされたのだろうか?
突然、天才的なドラゴンが現われた可能性は否めないが、そのドラゴンが各地のドラゴンに伝え広めるのに、五百年と掛かっていない。ドラゴンの平均寿命が当時でも三百歳程度であった事を考えると、これは驚くべきスピードである。
これは私の支持する学説の一つであるが、始祖のドラゴンの知識は、人類に負うところが大きかったのではないだろうか?
人類の影響は非常に大きかったのではなかろうか?
非常に魅力的な説明になります。
さて、皆さんが人類に対して持っている興味は、恐らく、龍田家に伝わる水晶板に寄るところが多いと思われます。
このコイン大の板は、水晶中に微細なクラックを与える事によって情報を保存してあります。
そこには多くの書物と絵画、映像が収録されていました。
今から十年前に解読が完了して一般公開されましたね。
さて、これを見てこの学部を選んだ方は手を挙げて。
学生の殆どが手を挙げた。
円盤の中の芸術作品は、人類は戦争で滅びた愚かな種族と言う定説を覆し、豊かで情緒ある人たちだったと言う事を物語ります。
人類を研究することは、我々がドラゴンである事を外側から観察する視野を与えてくれると信じております。
因みに円盤のデータの半分ほどは、不可読領域となっており、現在も解読が進められております。
もしかしたら、皆さんがその謎を明かす日が来るかも知れませんね。
彼女の授業を見てみると、ただの人間好きの変態と言う訳でもないのかなと思えてくるのだ。
だけれど、彼女も家に帰ると、「可愛い!」とぎゅっと抱きしめてくるので、複雑な気持ちになるばかりだ。
第四話
一週間後、身の回りで大きな変化があった。
一つ目は、栞が様々なお偉いさんと一緒に会見をして、栞が俺の正式な保護者となった事だ。
もう一つは、涼と栞と俺で三匹暮らしを始めたことだ。
一つ目は、もうシンプルな話であった。
法的な身分として、俺は栞の養子となった。この身体では出来る仕事なんて殆ど無いからだ。生活するためには仕方がない。
もう一つは、様々な理由があってそうなった。
例えば、元俺の家財をどうするのかや、栞の仕事の邪魔をいい加減出来なくなってきた事とか。
確かに、このままでは、栞が学会や会議に出掛ける時も、横にちょこんと座る羽目になる。
見た目は少女であるが、中身はおっさんなのだから、それはもう警戒されるだろう。
涼は、金持ちでもあるし、亡き父母と同居した家を離れていない事もあって、部屋に余裕があった。
彼女の俺を見る目つきから察するに、このことは彼女にとって渡りに船であったに違いない。
服は相変わらず子供向けのものであるが、手先の器用な学生が、しっぽと背中の穴を縫ってくれた。
どうやら、人間用の衣服や下着を発注してくれているらしく、その部分は感謝の言葉しかない。
ただ、お風呂の時間は、栞と涼で交代で行うようになったのだ。
今まで涼のことは性的な目で見ることはなかったが、なかなか積極的に自分の裸体を見せつけてくる。コイツ、本当に雄ドラゴンに興味がなくて、人間に興味のある変態なのだなと、嫌な印象しかない。
バスタブは人間の少女が入るには深すぎるので、彼女に抱きかかえられるようにして入る事になる。
当然というか、ほぼ意図してだが、スキンシップは過剰なほどになるのだ。
「なぁ、俺、戻れるかな? ドラゴンに」
涼に尋ねるが、案の定、言葉を濁される。涼や栞にとっては俺は人間である方が都合がいいのだから。
もし、戻れる道があるとして、それを見つけられるのは栞だろう。だが、それを見つけた時に素直に教えてくれるだろうか?
そう考えると、この二匹からいち早く離れるべきだろうと言う意識が立ってしまう。だが、逆を言えば、人間の身体である以上、彼女たちは俺を害す事はない。もし、研究のために人間の身体が必要だとなると、俺の人権なんてどうだっていい連中も出て来るに違いない。はっきり言ってジレンマだ。
その晩、彼女たちより早く床に入った俺は、なかなか寝付けないでトイレへと向かう。
その時、リビングから漏れる言葉を耳にする。
「赤血球一つ見ても、形が全然違う。全く違う生き物になっている。
だから、外科的にドラゴンに戻るっていうのは無理だって言っていい。
勿論、ドラゴンから人間になる仕組みがあるから、その逆の仕組みがないとは言い切れない。研究次第だけど、どうなることか……」
俺は、気付かれないように部屋に戻った。
戻れない可能性については、気付かないふりをしていたに過ぎない。
その晩はまんじりともできなかった。
それからは、研究に対して興味を持つことがなくなった。期待しすぎて駄目だった時が怖いからだ。
勿論、協力を求められれば素直に従うが、ガツガツとそれを求める気持ちにはならなかった。
身体測定と採血は毎日。他の事は、日によっては何もなかったりするし、心理検査や知能検査、身体能力も調べられる時があった。
それは素人目にも体系的とは思えなかった。その事が研究の進展のなさを教えてくれていた。
本来ならここでヤケにでもなればいいのだろうが、暴れたところですぐに押さえつけられる――否、それどころか可愛い可愛いと笑われるだけに決まっている。
待ち焦がれた専用の服も、フリフリの凄く可愛いもので、完全に二人の趣味だった。それに関しても、表向き嫌がってみたが、抵抗する気力もなかった。
二人の撮った写真が、ヒトナーに共有されているのも薄々知っている。
だけれど、この惨めな状況に対して感じるのは、ただただ無力感だけである。
あれから二ヶ月が経った。もうそろそろ、自分は元に戻れないと腹をくくるしかなかった。
そして、無気力であることを続ける体力も底をつく頃でもあった。
もう、これは全てを受け入れるしかないのではないか?
鏡を見れば、その姿は確かに愛らしかった。
ヒトナーが思うような印象ではないだろうが、それは子犬や仔猫を見る時のそれだ。
一人でいる時、鏡の前で愛想を振りまく練習を始めたのはこの頃だ。
だが、それとてひと思いに踏み込めた訳ではない。
静かな部屋で可愛い姿、可愛いセリフを考えている時、ふと寂寥感に襲われる。
何をやっているのだろう? そんなことで自分の何が解決するのだろう?
同時に、嫌々遊ばれるぐらいなら、こっちも楽しんでやるべきだと、自分を励ます内なる声にも遭遇する。
何にしても、仕事も勉強も求められていないとなれば、こうした事で気を紛らさせるしかなかった。
ある日、思い切って涼に抱きついてみた。
ぐっと腹に顔を埋めると、涼は声も出ないと言う風であった。顔が見られたら、どんな表情だっただろう?
何かが終わる気がした。
それからは、二人や二人が紹介するヒトナーに甘えたりする事に迷いがなくなったのだ。
第五話
変身から半年。
開き直ってからと言うもの、「これは楽しんでやっているのだ」と自分に言い聞かせている。そうしていると、可愛い衣装もあざとい表情もずるい台詞も全部が面白く思えてくる。
名前も捨てて、今は鏡花と名乗っている。
名前がはっきりすると、メディアも取り上げやすくなる。映像や写真は配信されて、それがファンを生んだ。
勿論、彼等彼女らにとって私は愛玩動物であり、その人格に価値など認めていない。それを知った上で――むしろ知っているからこそ、"俺"は"私"を演じられる。
そんな決意を嘲笑ったのは、一つの事件だ。
「杏子と言います。よろしくお願いします」
それは私と同じ年頃の人間の男の子だった。
栞は、「男になったんだし、名前も変えてみたら? 鏡花みたいに」と明るく振る舞う。
杏子は微かな微笑を零しながら、「そうね。それなら直哉がいい」と深く考える風でもなく答えた。
その反応に引っかかるものを感じながら、彼女がこの家に来た流れを説明される。
彼女は昨晩変身したようだ。私と栞の事は有名だったので、すぐにそこへと連絡を入れた。
栞と、そのマネージャーを買って出ている涼は、大急ぎで連絡と根回しをして、さっさと彼女――今は彼を引き取ったのだ。
彼女は順応が早かった。
早々に男の子としての振る舞いをマスターして嬉々としている。
三匹は仲良くやっている。そこはかとない疎外感を感じる。
孤立している感じはそればかりではない、かつての友達とか家族に会った時も、そのよそよそしい感じに耐えられなかった。
たった半年の間のことだ。
それまでは、仕事は真面目にやっていたし、誇るほどではないが、趣味を充実させる程度には収入があった。
友達は少なくはなかったし、実家に帰れば家族仲はよかった。
何が悪かったというのだろう? 何の天罰でこんな目に遭ったのだろう?
一度弱ると、次々にネガティブな感情が湧いてくる。
幸か不幸か、一人の人間の少女として振る舞う時だけそれらを忘れる事が出来る。
そうなると、一匹の元ドラゴンとなった時の気の沈み方は、より一層深刻となるのだ。
人間になるドラゴンが二人目ともなると、このあともっと出てきてもおかしくない。
そうなった時、自分の価値は何になるのだろうか? それとも、もっと暮らしやすくなるのだろうか?
栞に、また人間になってしまうドラゴンは出てくるのか尋ねてみる。
「そうね、半年の間に二人も出てきたからね。出てこないとは言えない。でも、何が原因なのか、いま必死に調べているところだから」
答えは案の定曖昧である。
私は、その事実をどう受け取ればいいのだろうか?
仲間が増えれば嬉しいのだろうか? 自分の苦しみを理解してくれる人を増やしたいのだろうか? もっと言えば、同じような苦しみを味わう何者かがほしいのだろうか?
もし、今後増えて行くような事があれば、国や社会は我々をどう見るのだろうか?
直哉にも尋ねてみる。
「ほら、俺、ヒトナーだから、人間が増えるのは歓迎だよ」
余りにも澄み切った瞳に、そんなことかと腹が立った。何を言ってやろうと考えていたら、更に続きを語る。
「ショタとロリは需要が違うでしょ? 鏡花ちゃんはそのままで十分可愛いんだから、心配することないぞ」
そう言って、私の頬に触れてきた。
これが、人間の感じる人間の肌触りか……少しだけ長身の彼の胸が目の前にある。
不思議な胸のざわめきを感じる。
立ち尽くしていると、直哉は半歩近付く。
もう、手を後ろに回す以外の事は考えられなかった。
そうして、ふたりぎゅっとする。
これが人間の匂い。これが人間の温もり。
気付けば、涙を流している自分がいる。
直哉は優しく頭を撫でてくれた。
第六話
自分が努めてそうしているからだろうか? それとも、変身そのもののように特別な力が自分をそうさせているのだろうか? 私は直哉に甘える事が多くなった。
そういう光景は、ヒトナーの一部に突き刺さったようだ。ネットには二人の関係の妄想同人誌が現われるに至る。
栞はヒトの研究資金を稼ぐために、我々の写真集や動画をダシに寄付金を募るようになった。
直哉は乗る気だったし、私もヒトとして振る舞う時の方が気が楽だったので、そうした撮影はトントン拍子に進んだ。
尤も、私や直哉が何を考えているか、何を思っているかと言う話はしない。あくまでもセルフで作り上げたキャラクターを演じ続けるだけだ。
栞や涼は、こうした"無理"を心配してくれたが、かつての自分を思い出す方がよほどぞっとする――否、それはドラゴンであったことに憎悪しているのではなく、元おっさんがそうしている事に対する拒否感だ。だから、それを客観的に確認出来る、郡志と言う存在は邪魔になってきている。それは、鏡花であろうとすればするほど強く感じる。
直哉はどうであろうか? 家にいる時、しばしばヒトナーの杏子として会話をする時がある。
まるで自分の事ではないかのように直哉のことを語り、一人のファンとして鏡花の事を語る。
直哉に同人誌のこととか、ヒトナーがどう見ているか尋ねてみると、愉快な笑い声を上げ「むしろご褒美だけど?」と挑戦的な瞳を向けた。
「や、やめてくださいよ!」
私が嫌がると、他の二匹も喜んで、「もっと仲良くしてもいいんだよ?」と煽ってくる。
「ヒトナーってデリカシーがないんですね?」
私が怒ってみると、「ヒトの世界にドララーなんてのがいたら、多分こんな話ばかりしてるよ」と、彼女らの笑いを助長させた。
笑いが収まったところで直哉が言う。
「もし戻ったら元の生活に戻れるだけじゃない? それなら戻れないことを考えないと」
瞬間、腑に落ちないものを感じながら、しかし、反論できる言葉も思いつかなかった。
「うん。そうね」
あやふやな返事でその場を凌いだ。
直哉の態度は確かに正しい。でもそれを認めてしまうと、もうこうやって冷静に考える自分も殺さなくてはならなくなる。そんな事は出来るのだろうか?
直哉がきて一ヶ月の間、二匹と二人は楽しく生活出来た。だが、栞が忙しくなると、涼は割と好き放題やるようになった。
好き放題と言うのは、直哉といささか仲良くする事があったりしたからだ。
直哉はそれを拒否していなかったようだ。
夜、二匹の声が聞こえる事もある。
栞の帰りが遅くなると、涼は一匹で二人分の風呂の面倒を見ることになる。
ある日、直哉が先に風呂に入って出た後、私が呼ばれる。
もう、直哉は部屋に戻ったものだと思って更衣室を開けると、真っ裸の直哉が立っていた。
何故だか知らないけど、赤面した私は更衣室を飛びだし、ありったけの憎悪を叫び続けた。
涼と直哉はそれをおちょくるように笑うばかりだ。
それでも風呂には入らなければならないので、今度こそ交代で風呂に入る。
涼は、「このまま戻らないとなると……」と呟く。
「やめて! 最悪!」
それ以降、彼をまっすぐ見られなくなってしまった。
直哉が変身して三ヶ月後、彼も今の身体がすっかり慣れてしまい、相変わらず私を翻弄していた。
ある日の昼下がり、栞が緊急記者会見を行った。
内容は、ドラゴンのヒト化因子の事だ。
一部のドラゴンの遺伝子に、ヒト化を進める因子があるようだ。
変身前の私や直哉の脱皮した破片(部屋を掃除して拾ったらしい)を元にiPS細胞を作る。これに問題の因子を刺激してやると、人間の細胞へと変化するらしい。これは、因子を持つ他のドラゴンの体細胞からも検証可能だった。
問題は、そこから先である。日常生活の中で、何がそれをスイッチさせたか? それは引き続き研究が必要だという。
しかし、世の中のドラゴンにとって一番の関心事は、自分がその因子を持っているかも知れない事、そしてそうだとしたら、望みもしないのに人間になってしまう可能性があると言う事である。
政府は迅速に動いた。世界各国と連携して、因子の検査方法の確立、そして予防措置の開発を推し進めることが急務となった。
研究が開始されて一ヶ月後には、地域的な差はあれど、概ね三分の一のドラゴンがこの因子を持つ事が発覚した。
他のあらゆる研究を止めてでも、予防措置を開発しなくてはならない。人口の三分の一が労働出来なくなると、もはや文明社会は持たないだろうからだ。
第七話
栞の発見と、その後の世間の動きに、私と直哉は動揺した。
直哉の事が恥ずかしくて見られなかった時期のことなど忘れて、やっぱり直哉にすがりつくようになっていた。
それは、なんとなく彼と仲良くしていたあの時期よりも、もう一歩踏み込んだような心理的距離だ。
こんな風に寂しくなるのは、偏に一般的なドラゴンが「あんな風になりたくない」と思っているのが、口を出さないにしても分かる事である。
今まで特別な変わった動物として可愛がられていたのが、哀れな一匹として――気の毒なドラゴンとしての視線を向けられるようになったのだ。
しかし、"可愛く振る舞う人間"自体の需要はあるので、外側に向かっては健気に演じ続けなければならない。
私達を可愛いと喜ぶヒトナーの中でさえ、ああなりたいと願う者は一体どれほどいるだろうか?
そんなことは分かっているのにもかかわらず、その現実を直視すると、己の限界が目の前に迫っていた事に気付かされる。
そんな時期に、直哉は「偶には"私"も甘えさせてよ」とすり寄ってきた。
涙を流す事はなかったが、抱き合ったまましばらくじっとしていた。泣きたいのは自分も同じだったけれど、二人とも泣くことは決して出来なかった。
ここで泣いたら、自分の惨めな境遇を受け入れる事を意味していただろうからだ。
そして、衝撃的な事件が起こる。
隣国のドラゴンが、ヒトの姿の状態で自殺しているのが発見された。
あまりにもセンセーショナルな話題だ。
プライバシーの問題から、詳細は触れられていないが、察するに余りある。
流石に栞も涼も心配してくれる――けれど、掛ける声は何も思いつかないようで、「相談ならいつでも乗るから」と言うに止まる。
勿論、それだけではマズイのは二匹も分かっていて、心療内科の先生まで紹介してくれる。
これは、精神がどうと言う問題ではなくて、社会のありようの問題だ。勿論、"私がこんなに苦しんでいるのだから、社会は配慮すべきだ"と言いたい訳ではない。
腰痛の患者がいくら泣き喚こうが、重力は一つも弱まらないし、いくら暴言を吐こうが、花粉症患者の周りから花粉はなくならない。
そこで必要なのは、腰に電極を当てるとか、鼻炎薬を処方するとかであって、腰痛患者や花粉症患者に優しい社会を作りましょうではない。
確かに、そう言うドラゴンに重い物を持たせないとか、マスクを付けている事をとやかく言わないとか、社会に求められる優しさはあるだろう。けれど、それは問題の解決ではない。
私は我が儘を言っているのだろうか?
人間になってしまったドラゴンを迅速にドラゴンへと戻す方法を見つければ、私も杏子も助かるのだ。だが、世の中は一様に、人間にならない方法ばかりを求めている。
憤懣やるかたない。
暴れたところで意味はない。むしろ、そんなところで暴れると、「人間の凶暴性が出てきたのか」と思われるだけだ。そうもなれば、今の生活も終わりを告げ、檻の中で暮らさなければならなくなるだろう。
それは今の生活よりももっと苦しくて惨めなのは間違いない。
私と直哉はお互いを励ましつつ生きていくしかない。
人間の姿と言う牢獄の中で。
テレビでは、「変身してしまっても国がサポートをしっかりしますので、早まったことはしないでください」と連日、それも枕詞のように伝えられる。
それを見ると、余計に自分の境遇を呪う元ドラゴンも出てくるだろうなと思った。
考えないようにしていても、それを見るのは気分が悪いものだ。
我々がテレビを見なくなったと同じ頃に、テレビも我々を取り上げる回数が少なくなった。
明らかに関心事が違うからだ。
それでも、ヒトナーは可愛い可愛いと言ってくれるし、自分の事ぐらいは愛せないといけない。そう思い、鏡を見つめる日々を過ごしている。
直哉の泣き言も次第に少なくなっていったが、それでも甘えたい時はまだまだあるようだった。
また、人間に変身してしまったドラゴンが外国で出てきた。今度は上手くサポート出来たようだ――が、流石に他の人間と交流したいと思う程余裕はないだろう。
五人目もすぐだった。今度も遠い外国だ。
我々は運が良かったのかも知れない。
増えていく人間、世間は恐慌状態だろう。
明日は自分かも知れない。
その頃、やっと検査方法が出てきた。
それがまた新しい地獄を産む事になるのだけど。
第八話
その検査の結果はまだ不確かだった。
否、確かな方法はある。体細胞を培養してそれに因子の刺激をしてやればいいだけだ――それが出来るのは研究所で数日間かけて十数件が限界だろう。
確かな方の検査は、身内でこっそりやるのが限界だった。
研究の支援という形だ。
だが、それでも研究の方優先となるから、そんなにやれる事もないだろう。
涼と栞が陰性だったと分かった時の、あの安堵の表情が忘れられない。
不確かな検査方法は、偽陽性または偽陰性が、それぞれ半分近くなるような有様だ。これは実際に厳密な検査で追試した場合もそうであるし、統計的にも確実なことであった。
だが、ドラゴンたちははそれでも検査を求めた。
その結果がどうであったところで、何をすることも変わらないと言うのに。
最終的に政府は、世論に押されて国民全員の検査を始めた。
尤も、検査の予約はすぐにいっぱいになり、このままのペースでは十年もかかりそうだった。
その理由の一つは、不正な方法での予約と、その順番の転売行為が発生したからだ。
これを潰すような方法を導入しなければならないが、政府の動きは鈍い。
また、民間でこの検査を行うような所も出てきた。
栞が言うには、「素人の雑な検査で上手くいけるわけないでしょう」と笑う。
結局、(研究者にツテのある)金持ちだけが厳密な検査を受けられて、そして馬鹿な庶民はいい加減な検査で一喜一憂するだけなのだ。
そして、陽性と診断されたドラゴンが、思い悩んだ末に首を吊ったなんて話も、まことしやかに語られるようになった。
この傾向は、他の国でも同じだったようだ。
一般的に、ドラゴンは人間よりも優秀で賢い種と言う事になっている。あくまでも伝説上の話ではないが……そんな幻想に付き合っている種が、どれほど賢いのだろうか?
劣っているとされる人間になって分かるのは、ドラゴンの高慢さだろう。
しかし、こればかりは口に出せない。"力ない生き物に対して心を砕ける私は素晴らしい"と言う価値観を持っているドラゴンもいるからだ。むしろ、多かれ少なかれ、我々小動物に対する意識はそんなものなのだ。
実際、公園の鳩や野良猫に餌をやるドラゴンは、"餌をやれる優しいドラゴン"と言う意識でやっているのだ。そして、その背後にある様々な問題――結局、鳩や猫を害することになると言う事実も、あっさり目を背けてよい理由になるのだ。
"ああはなりたくない"と思っている対象に、「頑張って」と掛ける声も、その笑顔も怖いのだ。
そうした警戒は、直哉と私だけの秘密だ。
人間生活が長引くと、人間同士での秘密も増える。
人間はしっぽがない分、心情を悟られないようにするのは難しくない――だが、人間の表情はドラゴンよりも絶妙で器用だ。ドラゴン向けにはドラゴンの水準の大袈裟な表情を作っていたが、人間同士ならその機微が分かる。分かってしまう。
二人になった時、「嫌な事があった?」とか「あれは腹が立つよね」と言う話ができる。
ヒトナーにデリケートなところを触られることもあるし、こちらが強く断れない事を承知でハグを強要したりする。
"杏子"は相変わらずヒトナーだと自称している。しかし、リアルで接するヒトナーの態度を見て、心底軽蔑しているのは間違いない。その引き攣った笑顔から察する事が出来るからだ。
そういう辛い日常は、二人で抱き合って体温と体温を交換し合うことで乗り越えている。
直哉は私にとって、なくてはならない存在なのだ。
「ドラゴンに戻るときは一緒だよ」
そんな約束をして眠りに就く。
近頃は、どちらかが、どちらかの部屋に行って一緒に眠る事が多い。
栞も涼もその事には触れない。
そう言えば、風呂でのスキンシップは最近淡泊になりつつある。
「もう飽きた?」
涼に意地悪な質問をしてみた事がある。
「うーん。何て言うか、怖い。
何気なく触れているけど、人間なんだよね」
「ドラゴンでいるつもりだけどね」
戸惑う彼女を見て、私は次々に追い込もうとした。
「可愛いのは可愛いんだよ!
……なんていうかな。架空の存在だったのが、現実の存在なんだって生々しい体験になりつつあるんだよね」
戸惑いつつ語るけれど、私はここで誤魔化されたくなかった。
「この身体、気持悪い?」
「そんなことはないよ!
そんなことはないんだけどさ……絵本の犬と、現実の犬って違うじゃない? 多分、私は、人間を理想化しすぎてたんだよ。
あ、残念だったとかそういうのじゃなくて……鏡花がどこからともなく現われた人間なら、もっとずっとさっぱりとして向き合えたかも知れない。けど、鏡花はやっぱり、ドラゴンだったし、ドラゴンに戻りたいって思っているでしょ?
だから、可哀想って簡単に言えないじゃない」
私は自分の浅はかさに驚いた。そして反省した。
「涼、ごめんね。最近、自分と直哉のことばかり考えている……」
そう伝えると、涼はおっかなびっくりに私を包み込んでくれた。
ドラゴンの肌触り。人間になってから、こんなにゴツゴツしていたのかと驚いたものだ。その皮膚の感触がある。
涼は私の皮膚をどういう感触で抱きしめているのだろう。
第九話
私が変身してから一年。
研究は遅々として進まず、そんな最中にまた厄介な事が起きた。
直哉が倒れたのである。
体温は、今まで記録しているものよりもずっと高くて、そして全体的なだるさを感じると言う。身体の節々の痛みを訴える。
栞は大学の仕事をほっぽり出して"看病"をする。ドラゴンにこうした疾患は見られない。ドラゴンは大抵症状がでないままに病状が進行し、何処かが壊れて、はっきりした頃にはすぐに死んでしまう生き物だ。そういう見地から言えば、直哉は命の危機にあった。
栞は「そう言えば、人間の小説に風邪ってあったけど、これかも!」と叫ぶ。
そして、栞と涼は必死に水晶板のデータを検索する。栞はこの件のエキスパートだから、その治療法らしいものは幾つか見つかった。
解熱作用のある生薬を見つけてきたり、タオルで頭を冷やしたり、栄養のあるものを食べさせたり。
勿論、これは医学情報ではなく小説の中に書かれた方法を実践しているだけである。
私も出来る限りの事で手伝いたかったが、感染症だと危ないという理由で直哉は大学に搬送された。
眠れない夜を過ごす。
栞は大学に泊まるらしい。
涼が私の面倒を見ながら、「人間なら治るみたいだから……」と自信なさげに私を励ました。
その日は、涼と一緒に眠った。涼には私を押しつぶさないように気を遣わせてしまったかも知れない。彼女がやや寝不足だ。
翌朝遅く、家に電話が掛かってくる。
「熱が下がったよ!」
栞の嬉しそうな声が、離れていても聞こえてくる。
念のため、もう一晩"入院"してから帰ってくるらしい。
この夜は、私の方が涼を気遣って一緒に寝る事にした。
さて、この一件、私が二晩眠れなかったと言う事と、直哉がうわごとのように、私の名前を呟き続けたと言う話で決着がついたように見える。
だが、水晶板の情報が人間の命を助ける事に繋がるのだと分かった事は、栞の意識を新たにさせた。
栞は、人間への変身の秘密はさておき、私達の命に関わる問題の方が先に解決すべきだと判断した。
水晶板に関しては、半分が未解読だ。
データのエントロピーから考察するに、"意味のある"データと推測されるが、どのような構造なのか、他の部分から推測する事は難しかった。
例えば小説の解読は、言語学の分野から分かった事だし、画像データ圧縮は、我々の技術と同等の何かを持っているだろうと言う推測でが立ったが、未読領域はその手がかりがないのである。
「もしかすると、他にも水晶板があるのかもしれない」
栞は、様々なルートを使って水晶板を探した。
「こんな緊急事態に何をするんだ」
と言う意見も多かったらしい。
確かに、世界の緊急事態に対して趣味を優先するような態度だ。これが私達の命に関わるという説明をしても態度は硬直するばかりだ。
結局、自分の事が大好きなのだろう――それは自分も同じか。
私は、ドラゴンというものを見限っている所があったのかもしれない。だから、大して期待していなかった。
だが、蓋を開ければ、様々な情報が舞い込んできた。
概ね伝承の類ばかりであったが、「これかもしれない」と、一枚の水晶板が送られてきたのだ。
最初の水晶板を読み取った装置を参考にして、新たな読み取り機を作り出す。
レーザーをミラーで走査し、周囲に取り付けたディテクターに読み込ませるのだ。
装置の制作と読み込みに一ヶ月、解析に一ヶ月、それをデータとして使えるようにするのに一ヶ月。
長い時間に思えるが、この作業量を考えると猛スピードなぐらいだ。
その時の栞の瞳はいつになく輝いていた。
それは研究者としてのそれもあったし、ヒトナーとしてもそうだ。だが、家族としてのそれもあったのではない。
ドラゴンは、人間に冷淡とばかり決めつけていたから、このことは目から鱗が落ちるような体験だった。
やはり、悪いものを悪いものだと見続けるのは健康に悪い。
第十話
結論から言えば、私達にとって有益な情報は見つからなかった。
しかし、この研究の結果、栞は勲章や、国際的な賞をいくつも貰う事になったのだ。
栞の研究結果の要約は下記の通り。
①ドラゴンが人間の遺伝子組み換えによるものだと言う証拠の発見。
②その遺伝子組み換えは、ドラゴンを言わば人間の遺伝子の乗り物として使っていたものだと言うこと。
③最終的に、人間を復活させる計画であったであろうこと。
④その方法をリバースエンジニアリングすることで、ドラゴンを人間化させないワクチンを製作できうる事を明らかにした。
仕組みが分かれば、あとは早かった。
検査方法はすぐに確立した。
私がドラゴンになってから、二年半ぐらいの頃、ワクチンの治験が始まった。
更に半年後には大々的に展開する事となる。
国民悉皆検査の反省を踏まえて、予約の厳格化や割り込みの禁止などの対策がとられた。
勿論、栞の導き出した結論は、ドラゴンの社会に大変な影響を与えた。
今までの神話が全て嘘になってしまう。しかもドラゴンが人間の創造物だとは……信心深いドラゴンにとっては世界がひっくり返るような出来事である。
否、ショックなのは普通のドラゴンもか。
栞のように前々から人間の創造物だと理解していたドラゴンはそんなに多くない。
論文はあったが、そういうドラゴンたちの目に触れると、撤回を要求される面倒くさいテーマだったのだ。
しかし、そんな内容でも自分が助かる事と天秤に掛ければ、信仰を選ぶドラゴンは少数派だった。
違うな……それはそれ、これはこれとしてワクチンだけは戴くのだ。
政府の陰謀だとか、人間の陰謀だとか言う連中はいた。 ただ、幸いなことにそういう連中は最小限に抑えられた。
マスコミも政府も、そのような意見に対して真面目に取り組んだ結果だと思う。
この話で笑ったのは、栞がドラゴンの皮を被った人間だと言う意見である。人間の着ぐるみを着たヒトナーがいるぐらいだから、ドラゴンの着ぐるみを着る人間もいたのかも知れない。
何はともあれ、栞の緊急記者会見から三年で事態は収束したと言える。
勿論、政府はワクチンの接種を強要は出来ない。最後まで安全性を信じなかったドラゴンは少し残ったが、そんなに多くない……そういうドラゴンが、稀に人間になったと言う報告が上がるだけか。
他のドラゴンには接種するなと言いつつ、自分はちゃっかり接種したドラゴンばかりだったんだなと分かる。
私の変身からワクチンが展開されるまでの間に、私を含めて百七人の人間が生まれた――人間への変身は時間を追うごとに加速的に増えて行ったのだ。
元に戻る目処は未だにない。
だけれど、私は妙にすっきりした気分になれている。
あの騒ぎが落ち着いて、ドラゴンたちは平静になってきている。
あの水晶板の一件で、多くのドラゴンたちが、私達を助けるために懸命になってくれた。そして、今も助けてくれるドラゴンが沢山いる。
私は悲観的になっていた事を恥じた。
「俺もドラゴンのことが少し嫌いになりかけていたよ」
直哉が笑う。
涼が「なになに? 私達の事が嫌いになった?」と寄っかかってくる。
「私の事をいやらしい目でみなかったら好きになれるんだけどなぁ」
と私が乗っかる。
「毎日お風呂に入れて貰ってそれをいう?」
栞がまとめて笑い飛ばしてくれる。
水晶板はまだあるだろう。人間が復活するつもりなら、もっと色々な情報を残しているに違いない。
そして、あの不可読領域も。
きっと、そこにはヒトナーを喜ばせるような情報もあるだろう。
人間はドラゴンを知性のある生き物とした。また、全てのドラゴンを人間に置き換えようともしなかった。
多分、この計画を立てた人間にも色々あっただろう。
それに、あの円盤は計画完了の暁には、全く不要な――むしろ邪魔ですらある情報だ。それも含めて、一万年前の決断が何かしらあったのだろう。
その人は、きっと人間に対して、今の私が持つ希望と絶望を両方とも抱えていたに違いない。
私は残された人間として、その彼に近づけるだろうか?
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