「明石君、済まないね。本当は、君にはもっと活躍できる場があるっていうのに……」
小さな参謀は、毎度申し訳ないような顔をする。
「国内では、この顔が私の顔ですから、気にしないで下さい。
彼なら、きっと生きていますよ」
あの提督には内緒にしていたが、私は国内に戻ると、海軍の女性士官になる。
大災厄の際に、大井参謀と同種の"劇的な変化"をこの身に受けた――それでも二十代そこそこの見た目になったのは幸運なことだろう。
それ故、まだ、深海棲艦の勢力が酷くなる前、私は駐在武官として東南アジアの某国へ派遣された。
しかし、海運の時代が終わり、海軍の力が弱くなるに付け、私の立場は希薄なものになった。
私は、大使館の中での居場所を確保すべく、男装して商売人に、そして諜報員になる事を決めたのだ。
元の提督が行方不明になって、もう半年だ。
あの時、私はすぐ、配下の地元勢力に彼の身柄の確保を命じた――長い間、有形無形の支援をしたお陰で、実に優秀な尖兵だ。
私が下した命令は、彼の身柄を他国に渡さない事だ。生死を問わず。
男装した人格としての私は、彼のことが好きだった。だから、この非情な命令を下すのは辛かった。
彼を一時的に確保した部隊のリーダーは、そんな私の気持ちを慮ったのだろうか? "不確実な方法"でこの命令に従ってくれた。
その後の捜索を行っているが、芳しい報告はない。
運が良ければ、ヨーロッパの何処かの国、或いはアメリカ諸国の何処かで厳しい詰問に遭っている事だろう。
個人的には、そうあって欲しいものだが、国益上それは許されないことだ。
「さんぼ~。何度言っても提督がおしり触ってくるよ~」
執務室に島風が闖入してくる。
「足が速いから、いい太腿してるねって言っただけじゃない」
私のスキンシップは艦娘には頗る評判が悪い。この彼女だって、歯がみする表情で、「もみましたよね!」と一音ずつ区切って抗議した。
彼女は、マセた感じのする駆逐艦だ。その上、露出度の高い服を着て平然としている。そっちの方が、よほど私にとって問題なのだが……
参謀は毎度毎度、「ほどほどに」と言う程度の注意で済ましているし、艦娘はそれで矛を収めてくれるのだから、言うほど腹は立てていないと理解している。
しかし、今回ばかりは、参謀の処置に釈然としていないようだった。
島風はふくれつつ不満を吐き出した。
「何で提督は、参謀に怒られないんですか!?」
そう言われても、日本に戻ってくる前は、これでも随分叱られたぐらいだ。そんなことを笑いながら話すと、意外そうな顔で眺め返した。
「ああ見えても、私より年上だよ。私だって、見た目は二十そこそこだけど、もう半世紀近く生きている訳だし」
これには驚くだろうなと、内心期待しながら、そして得意気に喋っていたら、島風は「ふーん」とだけ答えて、いくらか難しい顔をした。
どうしたかと訊ねても「全然関係ないと思ってた」と答えるばかりで歯切れが悪い。
彼女は、私の不信めいた表情を察したのか、「いひひん」と愛想笑いをしながら、「提督が参謀にセクハラしないなんて絶対におかしいもん!」と言って、その俊足で廊下を駆けていった。
「こら、走るな!」
私と参謀が無関係だと思っていたことと、セクハラしないことがどう関係するか、狐に抓まれた気がした。
こんな時、「艦娘は、人間とは異なる理で生きているから、考え方も違うとでも思っておけ」と参謀から指導を受けていた。仕方ない。そんなものなのだろう。
否、その考えはマズイのではないのか?
私は、この二十年近く、人の実を想定し、その裏を掻いて生きてきた。参謀がそうだと言っただけで、何故それに納得してしまう?
確かに、かつてのよい上官であり、今だってよい上官だ。だから、彼女の言葉をそのまま受け取るのは、軍人として間違いではない。
しかし、染み入った工作員としての私の血が、必至に抵抗している。その感覚が、時期を遅れて、今、囁きかける。
ああ、違う。こういう考えはやめよう。
私は、退屈を先取りしているのかも知れない。
そう、このまま死ぬまで、艦娘と暮らさなければならないのだと、理由もなく考えて、勝手に苦痛を感じているのだ。
艦娘は皆、良い子ばかりだし、この柔らかい日常だって決して悪くない。
第一、自分自身が不老不死になっているのかどうか、分からないじゃないか。
そう、私は、少しだけ参謀に酷い期待を持っている。参謀の実年齢は、私より二回り上である。人間の実年齢が寿命を決定するなら、彼女は私より二十年ばかり早く死ぬことになる――この老いぬ身体が、限定付きならば、私はそれを楽しむことが出来るだろう。
幾らでも不謹慎だと非難すればいいさ。知りうる限りで若返りを経験したのは、私と参謀だけなのだから。この気持ち分かってたまるものか。
「司令官、顔色悪いわね」
考え事する姿を、雷に見られてしまった――小さくころころしていながら、お姉さん気質のある子だ。
理由もなく、恥ずかしい所を見られたような気がする。
「ありがとう。何でもないよ」
この子の優しさは、確実に男を堕落させるタイプだ。本人にはぬるま湯のような居心地を与えながら、じわじわと自尊心を融かしていく。あの提督は、彼女にどう接していたのだろう?
大井参謀の「アイツは艦娘側に寄りすぎていて心配だったんだ」との言葉に、宿舎の暖かい雰囲気に鳥肌が立ってしまう。
こんな気持ちのままでいるのも癪なので、セーラー服をたくし上げると、細い指を這わせるように、臀部をなぞってみた。
小動物のような愛らしい嘶きを発すると、服の裾を引っ張りつつ走って逃げてしまった。
「こけるんじゃないよ~」
我が戦力は、未だに駆逐艦と軽巡ばかりだ。
尤も我々のただ一つの任務である、輸送艦の護衛に、それ以上の戦力は必要ない。
最初の輸送任務は、彼にとっても、この国の為政者どもにとっても、実に勇気の要った事だろう。
しかし、その成功とてすぐさま慣習となってしまう。
今まで数多くの名将が、己の編み出した画期的戦術に傲り、陳腐化させるがままにして敗れていった。
生き残るのは、強い者なのではなく、変化できる者なのだ。
弱肉強食とは、せいぜい、今この一人の兵士が生きるか死ぬかというだけの話だ。国は、そうした一つ一つの喰う喰われるの関係を包含し、世代を重ねて存在するものだ。
鹿は狼より弱いだろうか? 太古より鹿は狼に狩られ続けたが、遂に絶滅することはなかった。一方、我が国では随分前に狩り尽くしてしまった。
強弱と生存の関係とはそう言うモノだ。
だからこそ、我が海軍は、もっと変化しなければならないはずなのに。
大井参謀は、その事について、上の人間に掛け合っているようだが、何分リソース不足が響く。
そもそも、戦略を立てるほどの情報が、我が国には不足している。
確かに、同胞の情報網は、欧米にまで広がっている。しかし、それは遠くから聞き耳を立てるほどの仕事だ。実力を持って己の力を行使できるほど、我々の生存能力は洗練されていない。
生存能力? もしかしたら、"運良く"大災厄が訪れなければ、我が国はそのような国々に滅ぼされていたかも知れない。
我が国は、いつかの時代のように、列島の中に引き籠もり、あたかも、小さな靴に足を合わせるが如く、その狭い世界に適応していたのではないだろうか?
「あんたも、あの提督みたくなって来たわねぇ」
考え事をしている私の後ろから不意打ちをカマしたのは叢雲だ。
「少しぐらい偏屈じゃないと、艦娘と一緒に暮らすなんて無理じゃない?」
嫌みのつもりで言ってみたら、小さな身体のクセして居丈高に笑い飛ばされた。
「やっぱり末期ね! 同じこと言ってるなんて!」
そう言われると、何だか自分に対して非常に悔しい気分になった。
何か言いくるめてやろうと、彼女を見つめ返すと、満足そうな笑みに満ちている事に気付く。
そう言えば、彼女は、提督と一番長い付き合いだったな……
「アイツなら大丈夫だって、きっと何処かで生きているから!」
叢雲は、瞬間、当惑の表情に面を曇らせたが、直ちに紅潮が押し寄せ、耳まで真っ赤にして、
「ばっかじゃない! 私があんなやつ、心配する筈なんて」
と、その先は言葉に詰まったのか、踵を返して走り去っていった。
「廊下は走るなよ~」
前の提督の事を悪く言う艦娘は一人としていない。多少、反抗的な駆逐艦もいるが、彼個人に対してと言うよりも、海軍だの国だのに対する不満の方が多いようだ。
彼女たちは、生き残るために、人間に近付いたようなものがある。だからといって、人間を信頼しているかというと別である。
それはまるで、犬が人間を神か親と思っているのに対して、猫は自分が神か親だと思い込んでいるようなものだろうか。
或いは、天敵の脅威から逃れるために人里で繁殖することを選んだ燕か、餌となる残飯の供給源を求めて市街地で暮らす烏のようなものか……
彼女たちが、どのような"本能"でこの港にいるのか、深く考えれば怖いことだ。
弾薬や燃料の供給がなければ、彼女たちはこぞって他の国に逃げてしまうのではないか?
そんな疑念が、確信に結びつく"かもしれない"情報がもたらされたのは、翌日のことだった。
「どう思う?」
鹿爪らしい幼女の姿に、少しばかり心が揺らぎつつ、それでも参謀なのでぐっと我慢して、真面目な顔を作っておく。
「アイツが国を裏切るとは思いませんけどね。
我が国だけで三人も能力者がいるんです、オーストラリアにだって一人や二人いたって不思議じゃありませんよ」
オーストラリア海軍でも、艦艇の護衛による海上輸送が始まったという。
オーストラリア産の資源が流通して、我が国でもそれが手に入りやすくなると言うのは、実に嬉しいことだが、しかし、穏やかな事ではない。
確認されているのは、重巡と正規空母だけらしく、この偏った陣容は、護衛のために建造、編成されたものではなく、艦娘を捕獲したからだと推測できた。
そうなると、誰がその艦娘を導いたかと言うことである。
ここで、私の常識的なな筈の意見に、参謀はいささか不満顔だった。
「記憶喪失になっているとか、そんな可能性だって考えられないか?」
"可能性がゼロではない"と言う事を、何でもかんでも俎上に載せられるのであれば、キャプテン・クックの英霊が、かの国に恩寵をもたらしただの、オーストラリア周辺の海域から深海棲艦が急に消えたのだと言う事だって肯定されてしまう。
この参謀にして、このような愚かな言葉を口にするとは、いくら何でも信じられなかった。
「え、何ですって?」
それは、後から思えば、嫌みっぽく聞こえただろうか? 私は、純粋にその言葉が信じられなかったから聞き返しただけなのに……
「悪かった。私もどうかしているな」
大井参謀がずっと小さく見えてしまった。
何にしても、真相を確かめたいと、その艦隊の捜索を願い出た。
「それが……無理なんだ。
他国との小競り合いをする時期ではないと、外務省から圧力が掛かってな。
海軍だけの持っている情報だと思っていたが、世の中ままならないものだな」
あんなに大きな存在だったはずの参謀は、私がこの国に戻ってくると、随分可愛くなってしまった。
幼女の姿に変身してからも、その威勢は厳しく強く、決してこんな顔を見せることはなかったのに……私のことを変わったというなら、参謀だってなかなかのモノじゃない。
結局、任務は平常通りの輸送任務となった。
今日、我が艦隊の旗艦を務めてくれるのは祥鳳だ。
彼女は、前提督がいなくなる直前、軽空母祥鳳が鎮守府にやってきたのだ。海上護衛の旗艦は千歳姉妹で交代してやっていたが、ここに来て、漸く空母の登場である。
彼女の調査が終わったので、早速、千歳はドックに入る事となった。そう、軽空母に改造されるのだ。
我々は祥鳳を最後にして、新たな艦娘の発見に至っていない。
これはあの男の特殊能力によるモノなのか、それとも、我々の行動する海域では、既に出尽くしてしまったのか?
軽空母一隻、軽巡二隻、駆逐艦三隻で、更に増えた高速輸送船を護衛することになる。
恐らく、我々の力では、これ以上の船団を守ることは出来ないだろう……海軍は、この国は、我々をこのまま使い潰すのだろうか?
ああ、この日々をすり潰す感覚は。
海の表情と言うものは、しっかり存在していて、千差万別だ。
だから、その単調そうな景色の割に、外の様子に厭きることはない。
とは言え、毎度毎度、同じ公館や商館に缶詰となると、流石に面白くない。
あの事件以来、提督が外部と接触することは禁じられているのだ。
今すぐにでも男装して外に出たい気分だが、そうすると、身元がバレてしまう。
配下の連中から報告が入ってくるのを待つばかりの生活だ……今回は、特にオーストラリアの動向を知りたい。
と、思えば、入ってくる情報は、入港した港や、そこで積み込まれた荷物、給油の具合などだ。
給油のためのパージに潜り込んだ人間が、豆カメラで撮った写真を入手した――荒く、またディテールの潰れた写真を見ると、情報は正しく、正規空母と重巡が二隻見える。しかし、情報はそれまでだ。
他の諜報員によると、オーストラリア海軍内では、半年弱ほど前に、情報の管理が厳しくなったらしい。ブリスベン川の河口付近一帯は、一斉に立ち入り禁止となり、居住者には立ち退き命令が下った。
新型の対深海棲艦用兵器の為に、危険な実験をすると言う口実だ。
確実に、何かが蠢いている。
そして……その中に、有力な情報をもたらした男がいる。
写真を撮った男だ。
彼は空母に油を補給するパージの上で、作業員に混ざっていた。
汗を拭くフリをしながら、ファインダーを一瞬覗き、シャッターを切ると言う仕事だ。カメラは掌に収まる程の大きさで、奇術のトランプのように、袖の中に仕舞ったり出したりして写真を撮り続ける。
ある時、ファインダー内が濁った――強い光が脇から差し込んだのだ。見上げると、遙か上方、飛行甲板の上で双眼鏡を覗く二人組の影を見た。
一人は士官のように見え、もう一人は女性に見えたという。
急いでカメラを仕舞い、もう一度振り返ると、双眼鏡は男をまじまじと見つめている。
「大丈夫だ。双眼鏡が太陽の光を反射したのなら、レンズはこちらを向いていないはず」
彼はそのように己に言い聞かせながら作業に戻る。
証拠品のために泳いで逃げることも考えたが、陸からは遠い。相手がその気になれば、機銃掃射を受けて死ぬばかりだ。
何とか逃げ出すタイミングもあるだろうと、作業を続けるうちに、日は傾いていった。
給油作業が思うように進まないのだ。
送油管のトラブルだろうか、遅々として入っていかぬ油に、皆が苛立ち始める。
男は、毒を食らわば皿までと艦内の立ち入りを願い出るが許可が下りない。
暗闇になれば作業が出来ないと抗議するも、探照灯で照らすから作業を続けろと、無茶なことを言い始める。
当然作業は進まない訳だが、探照灯も遠い。波の所為か光が揺らぐ……違う!
"われ帝国海軍空母、赤城。彼、フタヒトマルマルより打電サレタシ"
これは発光信号だ! ゆっくりとした波長で、穏やかな明るさの違いでそれを表現している。勿論、探照灯にシャッターなどないから、複数の明かりを左右なり上下なりに振っているのだろう。
"打電サレタシ"に続く周波数帯と、暗号鍵を必至に記憶する。
作業しながらの事だから、もう、他の事など考えられなかったと言う。
この暗記が一点の曇りもなくしっかりしたものだと、自信を持ったところで、男の脳裏に立ちはだかったのは、昼間、双眼鏡で僕を見ていたあの人影だった。
"五日間、待タレタシ"
何か作業上の目的があるかのフリをして、艦隊側面をハンマーで叩いた。
作業を見張っている白人の水平に怪訝な顔をされたが、内容は悟られなかったようだ。
男の応答を聞き受けたからだろうか、今までの不調が嘘のように、燃料は迅速に注がれていった。
私は、男の証言を信じることにした。
全ての情報がデタラメだとして、我々がこの件で外に漏らす情報は、我々の居場所ぐらいだ。
そんなものは、我が国の公館なり大きめの商館なりを監視していれば、その動きで察しがつくってものだから、気にすることはない。
私は艦橋に上がり、歓待の文章を練り上げ、暗号化し、その時になるのを静かに待つことにした。
私を手伝う祥鳳は、私の顔を見て、「初めてお会いしたときは、飄々とした方だなって思っていましたが、意外に顔に出るんですね」と微笑んでくれた。
「変わったのよ」
変わったと言っても、それ以前の私を知るはずもない彼女が、それを比べることは出来ないか。
それから先は、全く予想通りの、とりわけ語るべき事の少ない交信だった。
あの提督しか知り得ない幾つかの質問を淀みなく――あくまでもモールスなので遅延なくと言うのが正しいが――答え、そして、何故、自分がこういう状態にあるのかと言う説明を始めた。
深海棲艦の包囲網を突破した、赤城、高雄、愛宕そして僕の四人は、満身創痍になりながらも、トンガまで逃げ延びる事が出来た。
そこで、謎の日本人男性、非常に調子の良い、そこはかとなく明石のような性格の男の口車に乗って――否、僕は自分が利用されていることを承知で――ブリスベンの海軍基地までやって来たのだ。
その男は、トンガより南西の海域にある、水道を把握していて、深海棲艦すら恐れて侵入しない危険な海域を、いとも容易く通過したのだ。
ニューカレドニアから、これまたタスマン海の水道――むしろ運河と言うべきか。所々人間の手によって浚渫された跡がある――を通って、安全に港まで到達することが出来た。
オーストラリアは、大災厄のおかげで勝ち組の側に立った方だろう。
タスマン海の浅瀬に守られ、漁業に関して障害が生まれることはなかったし、地殻変動と気候変動により、内陸でも雨が降るようになったという。
珊瑚海とアラフラ海は、深海棲艦が出るものの、トレス海峡での海運は健在で、ニューギニア島を通って拡大したスラウェシ島、ジャワ島、スマトラ島、旧マレー半島と接続される。
勿論、陸送は大陸での事情と同じく、陸上での略奪や通行量により、流通コストは高いが、沿岸部を利用した海運により、深海棲艦の猛威を避けつつ輸送できると言う。
つまり、オーストラリアは、東南アジアの盟主となりつつあるのだ。
僕は、以前、明石からその辺の事情も少しは聞いていた。しかし、実際僕たちが積荷をやり取りする際、接触するのはアジア人ばかりだし、それぞれの秩序で棲み分けが決まっている海賊どものテリトリーに、軍艦が立ち入るのはあまり賢くないという理由で、スールー海やジャワ海に侵入することはなかった。
場所は、オーストラリア海軍、南クイーンズランド本部である。
彼らは、深海棲艦と戦う力を持たないが、一方で、海賊を"監督"する立場にあるらしく、コルベットやフリゲートが充実していた。
先の戦闘で、赤城はほぼ無傷であったが、高雄と愛宕がそれぞれ中破に近い傷を負っている。
彼女たちを救うことと、燃料弾薬の補給があれば、我々がこのまま鹵獲されてしまうのは、仕方がないことだと思っていた。
それが国を裏切る事を意味していたのも理解していたが、同時に国のために自害することが、本当に国の利益に繋がる事とも思えなかった。
適当に義理を果たしたところで逃亡を図ればいいのだし。
オーストラリア海軍は、僕の取り扱いに非常に困っていたようだ。
僕は大体のことについて、素直に、嘘を吐かず答えていた訳だが、彼らはそれを信じることが出来なかった。
しかし、それでも、僕の号令一つで三隻の軍艦が思い通りに動く事について、合理的な説明など見つからなかった。
一度など、衆人環視の中、全裸で指示を出したこともある。
兎にも角にも、彼らは僕と彼女らの秘密を半ば信じ、半ば疑いながらも、彼らの任務に従事するように迫ったのだ。
一宿一飯の恩には報いるつもりであったので、これには快諾した。
しかし、遠くない未来、僕がここから離れることも臭わせておいた。何となしに、食い逃げするような真似をしたくなかったからだ。
この海軍に物理的に三隻の船を止める力はない。それに相当する船を建造するには技術も時間もない――そこに付け入れば、遠くから参謀に叱られそうな気がしたのだ。
彼らは、僕をたらし込む為に、様々な方法を試し、多くの餌を目の前に垂らした。
その時、"付け入らない"と言う僕の誓いは、"付け入らせない"と言う部分に於いて、僕を強くしてくれた。
決心は、パーティの類や女性からの誘いを断るとき、"非礼"と言う囁きを無視するのに多いに役に立ったのだ。
昼夜を問わず呼び出される誘いの中で、断れる事は全て断り、なるべくを赤城の中で過ごした。
当然、監視の兵は付いている。しかし、彼らの目にも艦娘は幽霊のような何かにしか見えないらしく、気味悪がって、遠巻きに眺める程度だ。
それに艦娘は、人間の姿をしている時とて、人間の手に負えるものではない。
未だに、僕がオーストラリア海軍以外の何者かに引っ張られていない所から考えれば、今後も僕の身に何かが起こると言うことはないだろう――もしその意思があれば、僕はとっくに倫敦塔行きだ。
三人の艦娘が快気したところで、オーストラリア政府は僕の籠絡を諦め、実利の方の回収に気を回し始めた。
それが、東南アジアへの覇権の拡大である。
権力への強い関心は、恐らく、大災厄が人間にもたらした危機感によるものだろう。世界各国で伝えられる民族間の紛争は、世界的な思想の潮流だけではないだろうと僕は思っている。
生き残るために戦わなければ、喰われるのは自分であるのだ。
我々に与えられた任務は、船団護衛と言う名の示威行為である。
海賊の横行もそうだが、広がった島や沈んだ島に暮らしていた多くの部族、宗主国から断絶された植民地政府、そこに宗教的な隔たりが加わって、状況は戦国時代の様相を呈しているのだ。
そこに一つ、頭の飛び抜けた存在が現れる――彼等はそれをどう見るだろうか?
何にしても、相手は弱小勢力ばかりである。貿易の利益を汲み出すには、素晴らしいハッタリになるだろう。
珊瑚海に出た我々は、旧ソロモン海、旧ビスマルク海の水道を抜け、変形したニューギニア島の北側を巡る。
フィリピンの島嶼は、複雑に変形してしまったが、外縁部の大きさはそれほど変化がなかった。ここを反時計回りに回り、スールー海に出た。
僕が、あの明石とコンタクトを取ったのは、まさに、その時のことだ。実に運が良い。
あと一昼夜ずれていれば、我々はスラウェシ島の広がる海域――セレベス海以南のマルク海などがあった海域に向けて移動を始めていたのだから。
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