「トニ、秘書から入電だ。明日の会議に間に合うかってね」
「そう」
瞳に映った地平線はそのままに、乾いた返事を返した。
彼女は仕事の話となると、急に不機嫌になる。見た目が見た目だけに、僕は不愉快にはならないが、振り回される幹部の方は大変だ。
「間に合わせるのが貴方の仕事よ」
「アイアイサー!」
トニ、つまりアントニアが自嘲している戦争ごっこにも、一定の意味はある。
艦娘の練度向上と、仲間の発見である。戦力を作ったのも維持しているのも、全てトニのお陰である。
「大阪城を作ったのは大工さん」と言う冗句があるが、実際名前が残るのは、金を出し、命令を下した人間だ。
彼女は、明らかに歴史を作る意思に満ちている。
「遠からず、欧州との連絡を図るわ。東海岸にも基地を作っている所よ。
その時は、大々的に宣伝しないとね」
いつか来る――否、充分な艦隊を揃えたのだから、彼女が近々言い出しそうな事だとは思っていた。
「日本人なんかが提督でいいのかね?」
僕は、古い知識として、有色人種が差別される傾向にあると思っていたので、下手な心象を与えるより、相変わらずのミスター・ミステリーであったほうがよいと思っていた。
「米帝じゃあるまいし……そうね、どちらかというと、そういうのはあるかもね。
でも、貴方達日本人だって、少なからずそう言う傾向があるじゃない。
口ではリベラルだ何だって言ったって、完全に差別的感情を捨てられる人間なんて滅多にいないものよ」
そうやって、僕の不安を煽りつつ、彼女は、自分の目指す未来へと僕を連れ出してくれる。
「ノートン1世?」
あれから彼女は、"上陸慣れ"させるために、僕をよく街中に連れ出した。
そして、今日はアメリカ皇帝に合わせてくれると言う。
広く明るい通りの突き当たり、坂の上のカフェテラスへとやって来た。
「現在のアメリカ皇帝よ。米帝にも皇帝がいるけど、こっちの方が余程、王者の風格があるわ」
あやふやな表現だ。
視野の先に現れたのは、贔屓目に見ても小綺麗な浮浪者であった。二匹の雑種犬を随行員として従え、悠然として歩いている。
街行く人々は、敬愛を込めて脱帽し、頭を垂れる。交差点の巡査は敬礼する。そう言う芝居がかった世界がそこにある。
彼は、その姿を確と見届けて、手を上げ、声を掛け進んでいく。この偉大な皇帝を妨げる者は、往来の自動車を含め、誰一人として存在しない。
そして、待ち受ける店員は、彼のために一番眺めの良い席を用意し、注文も聞かずにランチの準備を始める。
金モール付きの青い軍服は陸軍のものだ。ビーバーの帽子に羽飾りを挿した姿、身のこなしは堂々としているのに、このもじゃもじゃの髪の毛と髭が、やはり正気の沙汰を知らせないのである。
「皇帝! ご機嫌麗しゅう存じます」
トニが普段の活発さを鞘に仕舞い、ドレスの裾を掴んでお辞儀をする。
僕は慌てて追いかけ、シルクハットを脱ぐと、腰を曲げる。
「アントニア君! 橋の建設はどうなっている?」
皇帝は、威厳ある態度であるが、しかし驕り高ぶった要素など微塵として存在していない。
「滞りなく進んでおります」
彼は、彼女の正体について知っているのだろうか?
湾内に大きな橋を架けているのは、市民の知るところである。周囲の大人からすれば、この少女は、皇帝の機嫌に合わせて注進しているように見えるだろう。
話が進むと、経済や社会に関する、一部深い洞察に満ちた、大方ちゃらんぽらんな言葉が取り交わされる。
周囲の客は、聞き耳を立て、静粛にしている。
トニが誘導したのか、話は僕の事に及んだ。
「この男は、必ずや、現状を打開してくれましょう」
脈絡不明な紹介に対して、皇帝は威厳を保って応える。
「うむ、成功させるのだぞ」
この勅命、否、トニが話を振った時点から、僕は硬直してしまっていた。
そこに、彼女は肘打ちをして、返事を促した。
「有難きお言葉。屹度成功をご覧に入れましょう」
男の目には、得も言われぬ強さと慈愛が覗われた。
そうしているうちに、皇帝の卓に昼餉が運ばれてきた。
別れの挨拶を告げ、我々は店を後にする。
カフェの方から流れてきたのは、海老のフリッターの香り。衣と尾との香ばしさが鼻をくすぐる。
トニは、皇帝に会いに行った事を「験担ぎ」と言っていたが、同時に彼と彼を取り巻く市民を随分と持ち上げていた。
「貴方の国の皇帝も立派だとは思うけれど、彼ほど優れた皇帝はいないと断言していいわ。
誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しない。彼と同じ称号を持つ人物で、この点であの人に立ち勝る人は、私の知る限り一人としていない。
市民は愚か、軍人も警官も、それに役人や政治家ですらも彼を敬い愛している。
誰にも強制されず、自らの理性に相談して人生を楽しんでいる――そんな国。
素晴らしいと思えないかしら?」
彼が今の我が国にいれば、官憲に捕まり、一生医療刑務所暮らしをする事になるだろう。
そんな人物とて、害がなければ受け容れられるのだ。否、害があったのなら、あったなりに、それを寛げるように工夫するに違いない。
僕が関心を示すと、トニは自嘲しながら続ける。
「尤も、この辺りは、リベラルの前線基地みたいなものだからね。とりわけ常識的で寛容な人を集めてるんだよ」
多少飾ってあろうが、作ってあろうが、それを目の当たりにして、荒んでいた心は、幾ばくか逞しくなった。
あの男が、アメリカ連邦に現れたようだと言う報は、張による中国統一が破竹の勢いで進んでいった激動の時期に訪れた。
「正直なところ、参謀は嬉しいんじゃないんですか? 120歳越えてもピンピンしているあの老師の事を聞くと……」
私は、思い切って大井参謀に尋ねてみた。
「ま、そうじゃなかった時は、お前さんより儂の方が先に死ぬからな。お前さんにとっても安心だろうて」
見透かされていた事に、少しばかり苛ついたが、真実だから仕方ない。
「死ぬ時に死ぬさ。あの男だけが異常という可能性もあるからな」
彼女は、こんな時こそ飄々としていられる。
この無駄話は、明らかに別の喜びを隠すためのフェイクである。
好き勝手に進んでいく中国の状況は、目を見張るのに精一杯で、我々自身は何も出来ないでいた。
そんな、投げやりになってた時期に、あの"少尉"の生存確認である。状況はどうあれ、私も参謀も嬉しかった。
北米の情報が届いたのは、困難とは言え唯一の連絡ルートである、北極を経由したものだ。
ベーリング海峡は広くなってしまったし、大西洋だって、高高度輸送機を使ったところで、深海棲艦の邀撃機に、容赦なく撃ち落とされる。そうなると、犬ぞりを使った連絡が、"まだマシ"な選択肢として浮上してくる。
これは犬ぞりを過小評価しているのではなく、大災厄以降極端になってしまった季候が、かつての大冒険を、より蛮勇の要する挑戦にしていた事に対する敬意だ。
電波による通信は、深海棲艦による妨害なのか、それともガンマ線バーストの影響が残っているのか、中国やソ連が精一杯の距離だ。
ベーリング海の両岸に張り付いて通信する事は可能だが、厳しい環境ではまともな通信施設を維持できないため、最小限の連絡しか出来ない。
では、そこまでのコストやリスクを抱え込んでも、北極の氷原を突き進むのは誰だろうか?
主にシベリアに暮らしている人々の生活のためである。
北極圏の生活は、なおも困難な時勢に於いて、同じ危険ならば、高値の付く獲物を狙う方が良いと言う訳だ。
それ故に、金や物資さえ工面できれば、我が帝国といえども彼らから新聞や雑誌などを手に入れる事は可能なのだ。
情報を手に入れたのは、合田の手の者である。
合田にとって、我々は相談するに値する相手なのか分からないが、こちらにも写真やその他諸々を見せてくれた。
エスキモーがもたらす情報は、伝聞のような不確実なものではなく、雑誌や新聞という、(表面的だとは言え)人口に膾炙する情報を物理的に提供してくれるので嬉しい。
本件、ヒューズ・グループが、大艦隊を仕立てて大西洋横断を計ると言うニュースが、現地メディアを席巻しているようだ。
先に生存確認と言ったが、実のところ、彼の顔が確認出来た訳ではない。望遠レンズで撮られた写真は、帽子を目深に被った軍服の男だと言うだけだ。
米海軍の軍服が変更していなければ、彼のそれは帝国海軍に近いように見えたし、何より袖章が細線1条であったからだ。
そして、艦上に見える人影そのたった一人である。もう、あの男だと断定してもよいだろう。
問題なのは、この情報が半年も前の情報だと言う事だ。
準備期間を入れたとしても、もう既に大西洋にこぎ出している。それどころか、既にヨーロッパに着いている頃ではないだろうか?
大西洋は、太平洋とは違う色をしているように見える。
些か高緯度を進んでいるからと言うのも理由の一つなのだが、地理的な高揚感は宿で見かけた座布団にさえも刺激されるものだ。
大艦隊を前に、深海棲艦もちょっかいを出さないのだろう。哨戒機が敵艦を見つけても、彼らは我々を避けるように行動している――それを狙って哨戒を行っているのだが。
彼らの動きと我々の動きは常に釣り合っているように見える。
世界の情勢というのは、見た目動いていないように見えても、その界面では活発な動きがある。
平衡という状態は、押す力と引く力が等しくなっていると言うだけで、力自体は、常にそこにあるのだ。
エレベーターを見ると分かるだろう。カーゴから延びたケーブルの逆の端は、カウンターウエイトだ。
ケーブルの両端が釣り合っている時、これを動かすのに使う力は、想像よりもずっと小さい。
トニは、僕を見送った日、「その最後の力になれるだろう」と言ってくれた。
我が艦隊は、総力を以て、我らが望みと、彼女の野望のために、この閉ざされた世界を穿つ必要がある――僕は、自分の目で見たものを二度と疑わない。
第一次世界大戦後、大災厄のために、図らずも孤立主義に陥った南北両大陸から、こうしてヨーロッパへ向かうのは、何か宿命めいたものを感じる。
「アドミラル! また艦影が消えていきますな!」
随行の水兵が興奮気味に叫ぶ。
「海と空気は万人が共同に使うべきものだ。いかなる君主も、広い大洋を自由に航行するを妨害できないだろうよ」
僕があしらうと、「気分はドレークですか!」と乗ってくる。
我々が深海棲艦の領域に這入り込んだのか、深海棲艦が人類の自由を侵したのかは判断の付かないことだが、我々がアメリカにやって来るまでに、どれほどの深海棲艦を糧にしていたかを考えると、殆ど海賊のように思われても仕方ない。
「死ぬまでに、鉛の棺桶でも用意しておかなくてはな」
鎮守府は、今日も笑いに満ちている。
艦娘の任務は、相変わらず輸送の護衛任務だけなので、私は港で彼女たちの世話と、任務の手配を行うばかりの仕事になっている。
参謀は参謀で、陸軍と海軍の間で、七面倒臭い調整を行うばかりの日課だ。
ちはやは、そんな参謀からの薫陶を受けている。
艦娘からも勉強を教えて貰いながら、友達のような関係を築いている。これは尋常小学校よりもずっとよい教育を受けている事になるだろう。
もはや、参謀の身代わりをするには、成長しすぎている。今は、どちらかというと、ちはやのほうがお姉さんのように見えるだろう。
彼女自身、大井参謀がただならぬ存在である事に気付き始め、それが曾祖母であると言う事も知るようになった。
いささかショックであったようだが、今までの環境も充分異常だったから、順応は割と早く進んだ。
それに伴って、参謀への呼びかけが「おねいちゃん」から「さんぼー」に変わっていった。私としては、悲しくもあり、嬉しくもあるか。
鎮守府の中での彼女の地位は、あくまでも参謀の近親者と言う事になった。これは、合田の力添えもあって、なし崩し的に決められた。(人質として価値があると見られているに違いないが)
しかし、こうして、成長していく人が目の前にいると感慨深い。
艦娘も我々も歳を取らないから、ついつい昔の「置いてけぼり」の感覚を忘れて仕舞いがちになる。
とは言え、誰それが退役になるとか、水兵の小僧っ子が青年に成長していくのを見ると、正直、穏やかでいられない。
最も辛いのは、自分の知っている後輩や同輩が、亡くなったときだろう――この話はやめておこう。
さて、国内の情勢は落ち着きつつある。
それは陸軍一辺倒だったパワーバランスがいくらか持ち直した事を意味する。
これは、陸軍の力が誰かの手によって削がれたのではなく、鎮守府占領以来、陸軍にいいところがなかったからだ。主戦派の発言力が小さくなるのも分かる。
ただ、息を吹き返したのは外務省とか内務省とかその辺であり、相変わらず海軍省は落ちぶれた伏魔殿の様相を呈している。
悪魔が巣くうなら、いっそ兇悪な怪物であって欲しいが、そうじゃないのが救いようのないところである。
中国では、粛々と統一の形が整いつつある。
一旦出来た流れは、もはや誰にも止められず、なるべくフェアな関係を築こうと言う外交へとシフトした。
これを以て、東南から極東までのアジアは安定したと言える。流石に、我が国の陸軍がおいたをするとは誰も思うまい。
ヨーロッパからの連絡は、我々が小躍りしたあの日から程なく入ってきた。
艦隊は大英帝国を初めとして、ヨーロッパ各国を歴訪している。
当然、多くのアメリカ人が頑張っているわけだが、提督は提督で、今までの消極姿勢が嘘のように、頻繁に表に顔を出すようになった。
当然のように、艦娘をボディガードとしているため、この不気味な東洋人は「ミスター・ミステリー」と呼ばれるようになった。多くの人には、艦娘は謎の影でしかないのだ。
彼は、アメリカ連邦の口添えもあってか、様々なキーマンと非公開の会合をしている。
イギリスでは女王や首相、野党の代表、フランスでは大統領、ドイツでは首相といった具合だ。
北欧を巡った後は、スペイン、ポルトガル、イタリアを経て、黒海からセバストーポリで書記長に会うようだ。教皇にも会うらしいなんて噂も聞こえる。
あの男が、あの島にいたときに、様々な勉強をしていたのは知っている。
侮っていたが、そこで何かが変わったのかも知れない。それとも、行方不明の間に……
何にしても、彼は彼らしくなくなった。大胆に行動し、積極的に人にぶつかって行っている。人が変わったようとはまさにその通り。
しかし、ヨーロッパから送られてきた写真は、確かにアイツであった。
紅海に入る。
元々紅海は、潮流の少ない海のため、塩分濃度が高く、栄養分の少ないため、透明度が高かった。
しかし、この地域にも、あちこちから海が浸入してきた結果、複雑な潮流は海の色を濃く深くした。
ただ、流入する川の少なさは相変わらずなので、潮の香りは透明に近かった。
スエズ運河の原形は残っているが、アラビア半島が半島でなくなってしまって幾年月も経つと、当時の施設は廃墟と化しているようだ。
ヨーロッパ界隈を巡った理由の一つは、近東、中東、そしてアフリカで誰に利する行動も取らないこと、訪問しないこと、接触しないことを約束する事であった。
資源競争で、この方面は非常に不安定である。それ故に、僕たちの迂闊な行動が、どのように解釈され、利用されるか分からないからだ。
中立が成立するのは、重武装である時だけだ。そうでない中立は、思いつきの宣言であるか、酷い時には中立を騙っているに他ならない。尤も、侵略を受けた経験の殆どない我が国が、云々言ったところで説得力はないのだが。
しかし、逆に、我々が充分な武装を持っている時、中立である事はむしろ喜ばれるだろう――同時に、二枚舌な方便であると警戒される恐れもあるが。
我々は、慎重にこの海域を進む。
暗礁に神経を尖らせ、深海棲艦を警戒したりするよりも、ずっと精神に響く海域だ。
あらゆる装備は沈黙を保ち、等速を守りながら一直線になって進む。
この見事な艦隊運動を参謀は喜んでくれるだろうか?
様々なチャンネルからヨーロッパの情報が入ってくる。
あの男は、アメリカ人とは別に、各国の要人と何を話しているのだろうか?
何の野望を持っているのだ。何故、その野望を抱くようになった?
こればっかりは、私や参謀どころか、合田の力を持ってしても無理だろう。所詮は極東の小国なのだから。
彼は艦娘を除けば孤独な男だ。どんな人間と接触するにしても、艦娘だけを随行させているが、陸で他の誰かといる姿は見かけないという。
世に知られる限り、三度以上襲撃を受けたようだが、艦娘はその都度完璧に撃退している。
一番激しい戦いは、マシンガンで武装した十数名からの待ち伏せを受けた時、艦娘はそれを一瞬で薙ぎ払ったと言う。誰が何を考えているか知らないが、そろそろ彼の誘拐を諦めていることだろう。
そうした事件の数々は、現地当局が調査しているらしいが、犯人の身元が分かることはないだろうし、彼自身は意に介する様子はないようだ。用事を済ませると、そそくさと艦に戻るというスケジュールをこなしている。
艦に戻れば、随行しているアメリカ人と顔も合わせるだろうが、どんな会話が成されているか、想像する事も出来ない。
ソ連の要塞都市で、書記長と会談した表向きの内容は、鉄道とそれに付随して開通した電信によって、東の果てまでやって来た――公のニュースになる位なのだから、ミスター・ミステリーも何もないだろう。
"表向き"とは、彼の艦隊が、七つの海を深海棲艦から開放する事を宣言することと、他国の内政と紛争に関与しないという、今まで通りの――ソ連に限らず他の全ての国で語られた内容そのままである。
誰がどれほどその言葉を信用しているか、現地にでも行かない限り、その空気を知る事は出来ないが、少なくとも、東アジア一帯で行われたせせこましい綱引きが、馬鹿にされているだろう。
我が国は、島国という事もあり、情報統制はそれなりに成されている。
とは言え、知っている人は民間人でも知っている。
この国の不甲斐なさに、あれこれ失望している人は、それ以前からあった訳だが、内政を揺るがすほど不満は蓄積していない。
国民の潜熱がずっと低いままなのは、長い"消極的鎖国"のお陰で、国内の人間は、どいつもこいつも縮こまり、諦め、そして我慢強くなったからだ。
人口減の所為だろうか、それとも元々の国民性もあってだろうか。ムラ社会のような国が出来上がっていた。
それ故、こう言う情報を聞いたところで、何を騒ぎ立てるでもなく、むしろ、そんなもの知らないという顔で過ごすことが、大過なく生きていく為に必要であった。
大衆とは、いくら単純化して見たところで、未知な関数が多すぎる。
潜熱はどれぐらいのボリュームを持っているのか、今、どれほどの熱量を蓄えているのか、それを直接知る手立てはない。
何だかんだ言って、自由選挙制は謳っているから、政治家はこんな事ばかりに頭を使っている。
こう言う党利党略の結果が、あの"部分的に成功した"クーデターに繋がった訳だけど、巷の大人どもは、現実をありのままに受け容れている。
確かに、こう言う問題は、特高の手前、表だって主張する馬鹿は少ないし、心の底では何を考えているか分からない。
しかし、陸軍のあの行動に関して、少なからず「現状を打破してくれ」と言う期待はあったはずで、それが今になって手のひらを返したように、冷淡に官僚派の議員へと支持が移っていくのを見ると、民主主義の"お手軽さ"を思わずにいられない。
歴史にifを言うつもりはないが、陸軍があのまま増長して、拡大して、延びきったところで崩壊すれば、今まで万歳三唱をしていた連中は「瞞された!」と他人の所為にしてしまうだろう。悪い事もせず、良い事もせずに平穏無事であったと言う顔をして、敗戦処理を受け容れる。自分自身は、周囲の人間や子供たちに散々嘘を教えて過ごし、正直者を非難し続けた挙げ句にだ。
いくらかの軍人が文民に対して持つ反感は、その部分だ。軍人の命は大切だと言いつつ、自分の望む方向へ進むのならば、多少の死人が出た方が、政治的に正しいだなんて考える奴もいるのだから。
悲しいかな、戦争は政治の延長だ。国際関係のみならず、国内の事情、特に国民の意思によって――無論、それを煽る何者かの政治力に拠るのだが――戦争は発動する。
「このまま、艦娘引き連れて、南の島へ逃げ延びたいよ」
そんなぼやきは、まさに、そのまま、全ての望みを叶えてくれそうにも見える。
インドより東では、随分と僕の立場は悪い。
それ故、連絡機を使い、アメリカ人を行き来させるのが精一杯であった。
この辺は、トニの口添えもあったから、直接の苦情はなかった。水兵は不満であろうが、伊良湖さんが何かと甘いものを用意してくれるだろう。
少しずつ日本に近付いていく。
ラピュータからの帰還は叶わず、四度目の冒険をしたようなつもりになる。
アメリカ逗留記でも書けばいいのだろうか? 僕としては、賞賛すべき経済力などと同時に、人種差別(と言う単純なものではないのだが)に始まる、様々な問題も見てきた。
正直な話、あの大陸の連邦も帝国も、長続き出来る国ではないと思っている。
究極のリベラルも、究極の保守も、詰まるところ、強力なパターナリズムで人々を縛り付けようという思想にたどり着いてしまうからだ。
そんなものは、形を変えたヤフーであり、詰まるところ、縄張り争いをする猿なのだ。
フウイヌムと呼べたのは、あの皇帝だけだろう。
それは、同時に正気ではない。
こんな時、己の狂気を肯定する術はいくらでもある。人類の進歩を引き合いに出せば、正気の沙汰の向こう側からやって来た、様々な未来を語ることも出来るだろう。と、同時に、逆もまた然りという事などないのだ。時代が評価しない、評価に値しない、評価すべきでない狂気などばかりだ。"役に立った狂気"など数にならないほどだ。
今の僕は、そうした精神状態を、役に立つかどうかなどでは判断しない。
あの男が、中東を出てから、南へ向かわなかった頃から、私も参謀も次第に落ち着きを失っていった。
勿論、"帝国軍人たるもの"と言う意識は強かったが、結局、何もそれらしい事をしていなかった我々を、あいつは何と笑うだろうかと考えると、もう、赤面せずにはいられなかった。
否、他にも非常に複雑な心情が入り交じっているわけだが、そんな事は、一々説明していられない。
ああ、アイツが戻ってくるのがずっと早ければ、ちはやをダシにして馬鹿に出来たのに――そんな、愚にも付かない想像しか出来なくなっているのは、もう、余裕がない証拠である。
何よりも、提督と連邦の代表は、張政道との会談まで済ませている。
中国は、先日、再統一を宣言したばかりで、各国の代表は調整に走っている最中であった。
尤も、連邦の艦隊が近付いてきている時点で、外交を生業としている官僚や政治家にやれる事はないのだが、それとて仕事なのだから、幾ばくかの同情は寄せた。
我が国の陸軍は、合田が上手くやっているので、政治家も外務省も上手く出し抜いたと喜んでいる事だろう。ソ連に先んじて関係を構築したのは大金星である。
と、言う事で、当然、陸軍は我々よりも先に艦隊と接触したに違いない。
公式には、あの男は脱走兵な訳だから、表立った会合など出来る訳もなく、かといって帰国の際の処遇を相談しない訳にはいかないのである。
海軍の方は、もう、殆ど陸軍に縛られているようなものだから、私と参謀の手先ぐらいしか、自由に動いている連中はいない。尤も、私達の方は合田のお目こぼしを貰っているようなものだから、派手に動く事も出来まい――中央アジア縦断作戦での傷は深い。
0 件のコメント:
コメントを投稿