ロンデルを出発した二人の学徒は、アルヌスへと続く街道を行く。
目的地が近付くにつれ、道行く人の多さが目立つようになる。
商人を見かける事が多かったのは、今や帝都-イタリカ-アルヌスが一大商圏となった事だから、然もありなんと納得していた。しかし、道の先でエムロイの神官の一団と合流した時、彼らに人混みの理由を尋ねようと言う気持ちが起こった。
エムロイは戦いの神だ。ハルバートを担いで、フリルを揺らしながら進む彼らに、些かの気後れをしていた。否、身の丈もある柄物を手にした、百人からの集団などと言うのは、普通の感覚したら、随分と剣呑な存在だ。神官と分かっていても少しは距離を置きたくなる。
しかし、ズブロッカはイエーガーに一声掛けると、その返事も待たずに、大股歩きで団体に近付いていった。
イエーガーもズブロッカも、中肉中背、歳もともに二十歳になる。
どちらも顔の作りは悪くないが、イエーガーは神経質そうに見え、ズブロッカは好青年ではあるが、学者特有の面倒臭そうな雰囲気を漂わせる所があった。
二人は同じ時期にロンデルの門をくぐったが、ズブロッカは暫く前に博士を取り、イエーガーは修士で足踏みをしていた。
どちらも、金持ちと言う訳ではないが、それぞれ地元の領主が無利子で金を貸してくれたお陰で、不自由なく学生生活を送れていた。
それが、帝国と異世界とのいざこざのお陰で、ボタンの掛け違いが起こり始めたのだ。
借金の即時返済を求めてきたわけではないが、送金は滞り始め、親からは「地元に戻って教師にでもなりなさい」と催促されるようになった。
ズブロッカは、何処かの貴族に召し抱えられる道があるだろうが、少なからず導士への野心を持っていた。
一方、イエーガーも金持ち相手に教師の口を見つければ、"最低限"自活も難しくないのだが、ズブロッカに追いつけない自分に苛立ちを感じていた。
二人は、仲の良い友達ではあるのだが、その点で安定さに欠ける交友関係ではあるのだ。
ズブロッカは、所謂秀才タイプで、何でもソツなくこなす。自分よりもずっと賢い人間がやってくるロンデルの街にいて、腐ることなく着実に自分の道を歩み、安定して成果を出し続けていた。
逆に、イエーガーは器用貧乏タイプで、師匠からは便利に扱われているが、得意不得意の激しさから、望ましい弟子とまでは思っていないようだった。尤も、それだからと言って当たりが悪くなるような師匠ではなかったが、それが彼のコンプレックスになっていた。
修士になれたのも、言わば、逐電しない為にお情けでやったような所がある。手先の器用さ故に、実験器具を作るのが上手く、それが彼の美点であったからだ。
「ほら、あそこへ行けば、異世界からの色んな知識にも触れられる。そうすれば、師匠も認めてくれるだろう?」
ズブロッカは、アルヌスへ行けば、カトー導士やレレイ導士に仕事の斡旋と指導を受けられると言う話を耳にしてから、しつこくイエーガーを旅に誘ったのだ。
誘われる側としては、悩む所は多かったが、背中を押してくれる何者かを待っていたフシがある。そんな訳で、この話は嫌がる顔はせずにまとまったのだ。
話を戻そう。
イエーガーは、ズブロッカの後ろ姿を見送りながら、「固まって行動しているのだから、話しかけたら怒られやしないか?」と心配した。
しかし、見ていると、どうも、道を聞く程度の話ならば、見咎められる風ではなかったようだ。
適当に雰囲気を見て、旅の友が戻ってきた。
「えらく大きな祭りがあるらしい」
アルヌスの事は、あちこちで噂に聞いていたから、驚くことはなかったが、大変な時期に出立してしまったと後悔した。もう少し早めに決断していれば、落ち着いていられたかも知れない。
そんな心配を語ると、ズブロッカは「何言ってるんだよ、エムロイの神官がいるんだから、一緒にいれば、安心だろう」と反論した。加えて「あの子、可愛かったなぁ」と、先に話しかけた、ヘネシーと言う助祭の話を始めた。
彼は、博士になった後、女と別れてから、フリーのままだった。
彼女いない歴=年齢のイエーガーからすると、「彼女が出来るぐらいなんだから、自分よりもずっと恵まれているだろう」と、心の中で毒づいた。だが、拗ねていても仕方がないので、適当に相槌を打っておいた。
確かに、エムロイの神官が近くにいれば安心だ。ズブロッカの意図は兎も角、その意見には賛成する他なかった。
日が暮れると、神官達が野営の準備を始めた。
それに伴い、周辺を歩いていた商人なども、その近くで夜を明かす事を決めたようだ。
日中は少し離れて見ていても、夜ともなれば、夜盗が怖い。
盗賊なんてものは、神官だろうと学徒だろうと、相手が弱ければ、お構いなしに手を掛ける。その為、護衛も付けない旅というのは、想像以上に勇気の要る行為である。故に、商人の手にする口銭はこのリスクの代金だと言える。
学徒の二人とて、盗賊に襲われた商隊と見られる残骸を見ている。略奪の際に壊れただろう、立派な燭台が打ち捨てられていた。祈りの場に据えられていただろうそれは、彼らのような神官に出会うことなく、土に戻っていくのだろう。
エムロイの神官たちが傍にいるのなら、自分があの燭台のようにはなるまい。そう考えて、旅人に商人に、種々雑多な人が集まってくるのだ。
学徒の二人も、薪を集め、火を起こす。お茶を沸かして、干し肉と二度焼きのパンを腹に詰めると、後は眠るだけである。
空が明るくなるまでに出発すれば、その日の夕方には目的地に着くだろう。
そう思い浮かべながら、寝床を準備していると、イエーガーの手をズブロッカが引いた。
「司教も頑迷な人じゃないらしい、自由時間なら多少のお喋りなら大丈夫なんだってさ!」
イエーガーは嫌々ながら、その後についていく事になった。
ヘネシーとその他の助祭、侍祭を紹介されると、イエーガーもまんざらじゃないと言う顔をしていた。
総じて可愛い顔をした、十代後半から二十代前半といった感じの子で粒揃いだ。
ヘネシーは、童顔だがすらりと背が高かった。
二人は、そんな環境の中で、真面目に振る舞う事を第一に考えて話題を作っていく。フェブロン神殿はどんな所か、逆にロンデルでの生活はどんな風だったか――そんな所から始め、自分たちの境遇など、必要以上に語る事になった。
これは、彼女たちが聖職者である事とは無関係ではなさそうだ。視線を合わせ、うんうんと頷いている姿を見ていると、自分自身が邪魔している自身の気持ちが驚くほど吐けてしまうのだ。
そうして話の最後に、ヘネシーがアドバイスをしてくれた。
「エムロイの聖句には、"必要に迫られた際に大胆で果敢であることは、思慮に富むことと同じだと言ってよい"と言う言葉があります。
あなたがたは、そうする必要に迫られたわけですから、負い目を感じる必要はありません」
その言葉に感心していると、彼女は立哨の交代に呼ばれた。
「それでは、また」
翌朝からの動きも全て予定通りだった。
神官達が隊列を組む姿は、壮観の一言だった。
イエーガーが見とれていると、ズブロッカは街道の方を指さした。
「おい、アレが例の馬のいらない馬車って奴か?」
緑色の四輪車がアルヌスとは逆の方へ走っていくのが見える。
その車が、何か唸り声を上げているのは分かるのだが、仕組みは皆目見当が付かない。
イエーガーは、蒸気から回転運動を得る方法を古い文献で見たていたが、それがとても実用になるとは思っていなかったからだ。
蒸気から強い力を得るには、容器内の圧力を上げる必要がある。しかし、銅や真鍮では強度が足りず、鋳鉄で作れば重たく割れやすくなる。そして鍛造で肉厚の容器は作りにくいと来ている。
それに、あの車の中で、薪だのを燃やしているようには思えないし、魔法を使うなら、そんな回りくどい事をする必要はなさそうだ。
他に考えられそうなのは、弾み車やバネなどがあるが、あんな大がかりなものは作れそうにない。
あれやこれやと思索を巡らせているうちに、乗る気の薄かったイエーガーは、俄然とやる気を見せる事になった。
その気力は、カトー老師の「何をしてみたい?」と言う問いの答えにも現れた。
ズブロッカは、「数論を極めたい」と口にした。そして、嘗て"王の数学者にして、数学者の王"と呼ばれたカール大公の言葉、「数学は科学の王女であり、数論は数学の王女である」を引いた。
一方、イエーガーは「動力機械を新たな高みへと導きたい」と宣言した。
これは、ズブロッカどころか、カトー老師も驚かせたようだ。
機械の類は、職人が工夫して作り出すものであり、ドワーフの仕事だと蔑まれていた。少なくとも、全く学術的な分野だとは見なされなかったし、そう言う評価を恐れて、彼もそんな事を口にすることはなかった。
勿論、学者というものは、自分自身で実験器具を組み立てるものだし、錬金術師の師弟は銅板細工やガラス細工の腕を上げることが、師匠に気に入られる近道ではある。
しかし、そんなものとて、糊口を凌ぐための手段として、パトロンを持つような賢者には馬鹿にされるぐらいなのだ。
さて、本題の仕事の話になる。カトー老師から勧められたのは、教師職である。
アルヌスには、難民や移民の子供が沢山いて、大祭典が話題になる前で既に百人近くを面倒見なくてはならない状況だったようだ。
この世界で教師と言えば、どちらかというと、ちょっと気の毒な境遇の人がなると言うイメージがある。勿論、自分もその一人になる可能性があった訳だ。
実家が裕福でない人間が、ロンデルを離れるには、幾つかパターンに限られる。
①帝都などの都会へ出て軍人や官僚になる
②貴族や豪族などの下で学術研究に励む
③田舎で私塾のようなものを始める
④何処かの屋敷で、子守兼業の家庭教師を行う
他にレアケースとして、レレイのように、在野の賢者に教えを請うとか、経験や知識をさっぱり捨ててしまうとかある。
優秀であれば、①や②と言う道も拓けるが、イエーガーはどう考えても、③か④であり、先立つものがないので、④しか選択肢がないのである。
この場合、運が良くない限り、賃金は下男に毛の生えた程度であり、雇い主やその子に気に入られなければ、さっさとクビにされてしまう。
だから、教師と聞いて、二人とも落胆した――老師は、皆そんな反応をすると笑うと、住居や賃金について、法外な妥協を突き付けた。実に恵まれているのだ。
「これに有給もやるぞ」
先の申し出に驚愕しているところに、更なる謎の言葉が加わる。掻い摘まむと、給料を減らさずに、自由に出来る日を設けてくれるのだという。
二人は揃って、「やります」と答えていた。
答えた以上、やる事はやるのだが、疑問も多い。
何故、この地では、無駄金になりかねない初等教育を、街の子供全員に受けさせようとするのだろうか?
老師は、それを「この国のルールだから」だと答えた。そう、ここは、日本国アルヌス州なのだ。
「では、日本と言う国は、全ての子供が教育を受けられるのですか?」
老師曰わく、「それが国民の権利であり義務だからじゃ」と。
二人が理解しがたいのは当然である。まだ、自然権などと言う概念が存在していない世界だからだ。
日本の教育について、幾らかの誤解が含まれつつも、カトーから説明を受けると、「なんて恵まれた世界なんだ!」と感動するばかりだ。
こんな時、"権利"と言うものが、何処からやって来るのか? と言う疑問に答えるのは、実のところ門の向こう側でもはっきりしていない事である。特地世界では、貴族だから、神託を受けたから、などと色々な口実を得ることも出来るだろう。しかし、先進国側は、それに反論する事を、強く戒められなければならない。
「そうも上手く行かないそうじゃ。これから日本人と接触も多いじゃろうから、聞いてみるといい」
老師は、柔和な笑顔を見せると、面接も終わりだとして、羊皮紙とは思えぬ薄い紙に、あれこれと書き付けて、「これを持って組合事務所に行きなさい」と彼らを送り出した。
街は、以前から続く建物建設ラッシュに加え、大祭典の準備で、老若男女、ヒト種から異世界の人間、亜人諸々の人々が、めいめい自分の使命を果たすべく能動的に動いている。
物資の流れ、命令の流れ、そう言ったものは、言ってみれば、各々に対して直線的に結ばれるようなものである。単純化してしまえば、あやとりみたいなものなのに、実際は、複雑怪奇に動いて、全くその予想をする事が出来なくなる。
「こう言う混沌を数学として扱うことが出来たら、きっと、自然の秘密を解き明かすのに重要なツールになるはずだ」
アルヌスの活気に圧倒されていたイエーガーに、ズブロッカはそう囁いた。
フェブロン神殿からの旅は、漸く一段落付く――けれども、アルヌスに入る前日の夜は、酷く緊張していた。
それは、司教様始め、直属の司祭や、自分の後輩達に至るまで全員が共有していた感情だろう。
野営する時、司祭様が周囲の旅人と談笑するのを許したのは、きっとそれを解きほぐす為だっただろう。
私は、そのお陰で、レレイ老師へ教えを請いに行く学徒の二人に出逢う事が出来た。
学校のことや、それぞれの研究のこと、旅先での珍事など、楽しい話ばかりしてくれた。
数学の神秘、例えば、オッファーラの数理問答に纏わる、様々な事件や背景については、周りは眠たそうにしていたけれど、私には胸がときめくような話だった。
良さそうな人なので、朝の祈りに、彼らの行く末についても滑り込ませよう。
歩哨の時、闇を見つめながら、想像の世界を歩いていた。
多くの神官にとって、フェブロン神殿を離れること自体があまりない経験。
大抵は、幼いうちから修道生活に入っているわけで、自分とて例外ではない。
だから、道すがら立ち寄る様々な街、移り変わる風景は新鮮で、様々な心境の変化を与える。
自分だってそうなってしまって言いにくいのだけど、正直、緩みがちな雰囲気となっていた。
それでも、エムロイに仕える者は、誰でも聖下に対する恐怖心を持っている。それは戦女神の鎮守するアルヌスが近付くにつれ、否応もなく強まってくる。
この緊張と弛緩が相まって、形容し得ない興奮が沸き立つのだ。
特に、助祭以下の若い神官にとって、あまりよい影響を及ぼさないように思えた。
アルヌスは、私達の神殿とは対照的に喧騒の中にあった。常に誰かが槌を打ち、声を上げ、走り回っている。
隊列は、己の精神に流入する新世界に圧倒されながらも、ロゥリア神殿へとたどり着く。
その神殿は、神殿よりも祠に近く、その大きさの為に、私達は様々な疑問と心配をする事になる。
宿舎のことであるとか、聖下のお住まいであるとか言う疑問は、フラム司祭によってすぐに払拭された。けれども、聖下の御心は、深く顧みられる事はなかった。
納得しない司教に、聖下は苛立ちを見せる頃となると、その場に居合わせた多くの者は、恐怖に震えだし、畏怖に顔をゆがめた。
「私の所へ刺客を送り込むのはよしなさい。もう五人も捕まえたわ。もし、やめないのなら、私の方からフェブロンへ一人差し向ける。二人目は必要ないでしょうね」
破門事件の前に、聖下は時の大司教とそんなやり取りもしていたと言われている。
その後の詳細は皆知っているので割愛するけれど、この粛清は千年近い今になっても語り継がれ、その恐怖は魂魄に刻み込まれ、流れた血は宿業を思わせる。
ロゥ・シタンの人は多いけれど、それでも、こんな空気になるのだから、恐怖とは、憧憬や敬意と意識される次元よりもずっと根深いものがあるのかもしれない。
そんな事を言う私も、釣られて怖くなってしまう。共通意識としての恐怖が支配している。
私にとっての一大事は、到着して三日目の昼頃に発覚した。
ナッシダに使う荷物の一つが、どうしても見つからない。
儀式に必要なものは、現地調達出来るものは調達するように、予め手配されていた。私達が到着するまでに、全てが揃っている手筈だったのだけど、一つだけ到着が遅れている。
当然、到着の遅れは見越しているのだけど、今日になって、どうやら問題の商人は盗賊に襲われたらしいと知らされたのだ。
子供のお使いじゃないんだから、代用品の手配はすぐにしたのだけど、問題は、誰が聖下に、そのことを説明するか――誰も「私は嫌だ」とはっきり口に出すことはなかったけれど、「では私が」とも言い出せないでいた。
聖下は、このナッシダを盛式に行うと言い出していたそうなので、こんな事でケチが付いたら、きっとお叱りになるだろうと言うのが皆の意見だった。
そうして、全員が押し黙っているには時間が経ちすぎた。そうしていると「誰が手配したのだろう?」なんて声が出てきてしまう。
言いようもなく残念な気分になる。
「そんな事やめようよ。それなら、私が行くよ」
私自身も葛藤がなかった訳ではないけれど、「こんな形で報告が遅れれば、大変なことになる」と自らに言い聞かせ、私ともう一人の助祭と二人で、アルヌス協同生活組合へと向かった。
いくらなんでも、こんな事で首を落とされるはずもないからと、相手をしきりに落ち着かせつつ、自身も全く動揺の最中をさまよっている。
事務所が近づくにつれ、高鳴る鼓動は、顔面横動脈の動きさえも、耳で聴きとれる気がするほどだった。
そして、その極まりに来たとき、私は、「聖下!」と声を掛けると、絞り出した勇気さえも枯渇してしまったのだ。
私ともう一人は、かしずいて、むしろ平伏したまま、動くことが出来なかった。
それは二日前から続いた苛立ちだった。
「遠い所ありがとぉ。今日はゆっくりお風呂に入って、疲れをとるといいわぁ」
フェブロン神殿から、アルヌスに到着した神官たちに対面した時、長ったらしい話はよくないと思い、簡潔にねぎらいの言葉を言うつもりだった。
息を吸い込み、何度も練習した言葉を一思いに吐き切ると、ついうっかり、ハルバートの石突を、石畳に勢いよく打ち付けてしまった。
壇上から見ていて、彼らが動揺している姿が手を取るようにわかる。
フラム司祭が上手くとりなしてくれなかったら、泣いてしまっていたかもしれない。それぐらい、自分自身に焦りを感じた。
自分で盛式のナッシダを行うと言った手前、フェブロン神殿から神官を呼ばないという選択肢はなかった。
フォルマル伯爵家からメイドを借りようという話もなかった訳ではないけれど、こんな事で確執が深まるのは本望ではない。
今だって、フェブロン神殿へ足を踏み入れる事さえ躊躇する次第なのだから、それをやっては、二度と後戻りできなくなるだろう。イタミが様々な試練に、要所要所で立ち向かっているというのに、自分が逃げる訳にもいかない。
百人からなる神官に対面するのは、それを克服するいい機会なのではないかと前向きに考えることにした。
それが、しょっぱなで挫かれたのだ。自分が悪いのだけど。
そして、そんな調子を挽回出来ぬまま、三日目の今日、"死神ロゥリィ"として一番嫌な光景を見ることになった。
「申し訳ございません!」
二人の助祭が地面に突っ伏している。それは、本当の本人の内面からくる申し訳なさではなく、ただただ、自分の首が刈られるのではないかと言う恐怖から出た態度だったのだ。
「何? どうしたの?」
動揺を見せてはいけないと、口調を落ち着かせるが、それが却って恐ろしく感じさせるのか、一層首を縮ませるばかり。
そんな風にされると、表情も見えないし、何を考えているのか分からなくなる。
恐怖と言う感情で覆い隠して、本当のところを見せまいとしているようにさえ見えるから、気分のいいものではない。
だから、どうしようもなく立ちすくんでしまう。
「兎に角、顔を御上げなさい」
と、膝を折ろうとしたところで、強い声が響いた。
「やりすぎだろ!」
と。
相手はヒト族の男だった。二十歳ぐらいだろう。
「見かけない顔ね」
相手は、私の誰何の言葉に耳を貸そうとはせず、「エムロイの神官は、目下の相手にこんな事をさせるのか」と捲し立てた。
私がそれに対して、返事をするのも待たず、「叙階が高いのかもしれないけど、年下がそんな事をするのは、感心出来ることじゃないね」とまで喚き出す。
目の前の助祭二人は、意識も失わんばかりに驚き、凍り付き、息すらも出来ないのではないかと言う顔をしていた。
相手の怒りに乗って、こちらも怒り出すのは、決して頭のいい人間のする事ではない。まして、恐慌状態にある子の前で、滅多な事をすれば、直面している問題を後戻りさせてしまう。
「そうね、悪かったわ」
私が落ち着き払って、男に語りかけると、周囲の人間からどよめきの声が上がる。この状況に突入して、私達のことに無関心でいられる人々が、この周辺にどれ程いただろうか?
ハルバートを地面に置くと、目の前の神官に「顔を上げて、何がどうなっているのか説明してくれる?」と手を差し伸べる。
神官は二人いたが、一人は、うっかりすると、そのまま死んでしまいそうなぐらいだったので、幾らか落ち着いていそうな方に声を掛けた。
「あ、あ、あの……」
向かい合った彼女は、克己心と恐怖心を必死に戦わせているようだった。
それを妨げないように、静かに待っていると、また喧しい事に、別な男の叫び声が響く。
「ズブロッカ!」
ズブロッカの事を見損なったのは、アルヌスに来て早三日目の昼近くであった。
「おい、次の授業の準備しなくていいのかよ?」
"小学校"で最初の授業を終えると、僕もズブロッカも、二時間ほど空き時間が出来たのだ。
そこで、彼は、ロゥリア神殿の方へと行かないかと誘って来たのだ。
お目当てがヘネシーであるのは明白だ。否、口には出さないが、彼はそれを隠す気すらないのだ。
「俺を巻き込まなくたっていいだろう」
面倒臭さが先行して、僕は、適当にやり過ごそうとした。
それにもうじき、ジエイタイの人が、日本語の授業のために来るそうだ。色々と面白い話が聞ける。ズブロッカの下心なんかに付き合う暇はない。
だが、一抹の不安はなんとなしにあった。
ズブロッカが、突っ込んで行って、エムロイの神官達に目を付けられやしないかと心配なのだ。
神官は、神官なりに色々なルールがあるだろうし、学徒には学徒の流儀がある。その齟齬を何も配慮しないでいると、実に失礼なことをしてしまうし、或いは気分の悪くなるような目に遭うこともあるのだ。
とは言え、そんな事に僕が巻き込まれるのも御免だという気持ちの方が強い。薄情と言われようとしょうがない。
少し、気がかりになりながら、僕は"門の向こうの人"に挨拶する。
アルヌスに来た経緯や、ロンデルの事などを話すと、似たような境遇の教師が多いらしく、よく話を聞いてくれた。
「一昨日と言えば、神官の一団が到着した日だね」
「ええ。百人も揃うと壮観ですね。
そうそう、僕と一緒に来た、ズブロッカって友達がいるんですけど、神官の一人に一目惚れしたみたいで……」
そう言葉を繋ぐと、「エムロイの神官にお近づきになるのなら、ボスに話を付けておくといいよ。今なら、組合事務所にいると思う。紹介しようか?」と勿体ない程の申し入れを頂く。
「それなら、ズブロッカにしてやって下さい」と断ったが、「顔を覚えて貰って損はない。ロゥリィは、レレイ、テュカと並んで、ここの顔役だからね」と、半ば強引に外へ連れ出された。
ロゥリィとは、死神ロゥリィの事だ。ジエイタイの人は「気さくな人だよ。何で死神って言われているのか不思議なぐらい」と答えるばかりだ。
先入観で人を判断するのもよくないなと思い、素直な気持ちで、後に付いていった。
そして、そこで目に入ったものは、ロゥリィ・マーキュリー聖下に物申すズブロッカの姿であった。
「ズブロッカ! お前、何してるんだ!」
有無を言わさず、ズブロッカを無理矢理引き離し、学校の方へ引き摺っていく。彼も彼で抵抗を試みたが、ジエイタイの人も協力してくれたお陰で、無事に戦地からの撤退は、成功裏に完了した。
その時の、聖下の哀れみに包まれた顔を見て、申し訳ない気持ちで一杯になる。
この男は、こんなに向こう見ずな男だったのだろうかと。
学校に戻ると、ズブロッカは、事の次第を説明してくれたが、しかし、今ひとつ要領を得ない。
要するに、ヘネシーが聖下に許しを請うている姿を見て、居ても立ってもいられないでいたと言うだけの事である。
僕は、現場を見たわけではないし、そこに至る過程も何も分からないから、「同調するには判断材料が足りない」と言ってみたが、ズブロッカは納得してくれない様子だった。
少なくともハッキリしているのは、彼は食って掛かったその人が、ロゥリィ・マーキュリー聖下であると知らなかったと言うことである。
「亜神だからと言って、あの横暴は許せないよ」
と言うのが、彼の主張だが、それに対して僕は、「前後関係が分かってからにしようよ」としか掛ける言葉がなかった。
「で、また押しかけてきた訳ねぇ?」
僕は仕事が終わると、また組合事務所に出掛けていた。
日が暮れ始め、周囲の慌ただしさの様相が、黄金色に輝いている。日々の労働に感謝し、今日よりよい明日を指向して、仕事を片付けていくのだ。
そんな事務所周辺の景色が背景に流れていく中、聖下は僕のような新参者にも、話をしてくれた。
何故、この事で居ても立ってもいられなかったと言えば、人から「ロゥリィ聖下を子供扱いして、五体満足でいられる訳がない」と吹き込まれたからだ。
恐怖を押して、一通りの事を説明すると、「いい友達を持ったものね」と噴き出す姿を見せてくれた。僕はそれで、漸く安堵することが出来た。
彼女のズブロッカに対する評価は、「周りの見えない一直線男」だった。しかし、それでも僕より頭の切れる男だし、こんな姿は、"あまり"見られるものじゃないとフォローはしておいた。
「でもぉ、ケジメだけはキチンと付けて貰わなくちゃねぇ」
そのケジメとは、神官たちがフェブロン神殿に戻るまでに、ヘネシーをしっかりと口説き、アルヌスを離れ、修道士になれと言う事だ。
地味に考える事がエグいなと思ったが、すぐに考えが改まった。
どうせ、大祭典が終わる頃には心変わりしているだろうし、多少後ろ髪引かれるにしても、そこまでの一大決心をするはずがないのだ。
「一人で好きになるのは勝手だけど、それを押し付けるのって、結局、自分の事しか好きになっていない証拠なのよ。
学問にしたって、遊びにしたって同じでしょ? 自分の人生の幾らかを捧げる時、それが自分の為になるかどうか打算しているうちは、何も捧げていないのと同じなの。
人はみんな死ぬわ。でも、それだからと言って不幸になる事が運命付けられている訳じゃない。
その時、人が自分の命を超えてたどり着けるものこそが愛なのよ」
死と狂気と戦争、そして、断罪の神様の使徒が何故に愛かと思ってみたが、恐らく、愛は狂気の一つの形だからなのだろう。
家路を急ぎながら、「そうは言っても、意地悪だよ」と独りごちた。
自分の体験を美談のように語るのは、それが大事であるほど自重しなければならないのだけど、ロゥリィ聖下から優しい言葉を掛けられたことは、それにも増して重要なことだ。
途中で起こった闖入者の事は兎も角、聖下は、私に優しく言葉を掛けられて、吃る私の手を取って戴いた。
報告についても、感情的な言葉など一つもなく、むしろ、対応した結果について褒めて戴けたぐらいだ。
同僚に、そうした話を一つずつ聞かせてみるが、信じがたいという態度をとられてしまう。証人がいるのだから、嘘とは言われなかったが同意にまでは至らなかったのが残念だ。
いずれにしても、私はそれを境に聖下のファンになってしまった。
人は単純だと笑うかも知れないけど、そんな事はどうでも良いと思える程に運命的な出会いだと信じている。
そんな気分の高揚している時期に、聖下から呼び出しを受けるとなると、否でも応でも気持ちは高ぶる。
「名前を憶えて貰えたんだ!」
と言うだけで、我が世の春を感じる。
しかし、そこで告げられたのは、「ズブロッカって男の事をどう思ってるのぉ?」と言う、思いの外低俗な話であった。
「そんなに嫌がらずに聞いて」
と、聖下は語り始める。
説明は粗方納得したけど、それに巻き込まれた理不尽さは上手く飲み込めない。
「私が言うのもちょっとおかしいけど、形はどうあれ、私に立ち向かったのは、貴方の気を引くためだった訳でしょ?」
反論は出来なかったが、私の責任ではないのだから、放置しておけばいいのではないかと反発する部分もある。当然腹を立てる相手は、聖下ではなくあの男に対してだ。
確かに、一方的に思い込んでいる男が、今後何を起こして、私に邪魔をするか知れたものじゃない。そう言われれば、その通りだけれど、相手の愚かさの為に、何もしていない人間が割を食うというのは、納得したくない理屈だ。
「その人を直接フレばいいんですね?」
と、立ち上がると、私は学校の方へと歩き始めていた。
ズブロッカは、随分と凹んでいた。
ヘネシーが学校に訪れたと思えば、「迷惑だから、二度と関わらないでください! 私にも聖下にも!」と唐突に言われたからだ。
僕が聖下に言われた事は、すっかり喋ってしまった後なので、"ロゥリィ憎し"とならないか心配するぐらいの落ち込みようである。
好きであるかの如何に関わらず、他人から不意打ちのように拒否されれば、誰だってショックを受けるだろう。
そんなズブロッカの代わりに、僕が頭を下げたわけだが、これも"友達料"だと思って気にしないことにした。最初に彼を止めなかった自分も悪いのだし。
これを機にスパッと諦めてくれれば、彼は数論の研究に打ち込めるだろうし、僕も友達を減らさずに済むのだから、こんなにいいことはないと思う。
問題は、そのように上手く行ってくれるかという事だ――と心配したが、結果は割とあっさりしていた。
一晩明ければ、ケロリとしていたから、安心を通り越して、軽薄さに憎悪感を覚えるほどだ。
尤も、相変わらずの友達にはいい奴なので、これでこの小噺は終わったと思っていた。
なのだが……
その日から、ロゥリア神殿へ熱心に通うようになったのだ。
この事実を知ったのは、暫く後にたまたま出くわした聖下に、それとなく愚痴られた時だった。
「でも、ヘネシーさんへの接触はないんですよね?」
「だから面倒なんじゃない」
そう、面倒なのだ。
ヘネシーとしては、自尊心を傷つけられた気がするし、ロゥリィ聖下からすれば、見かけでアピールしているようにしか見えないのだ。どっちが本気であるにせよ、鬱陶しい事この上ない。
また、なまじ記憶力がいいものだから、聖句の類は、もりもりと覚えているようである。問答した司祭が舌を巻くほどに。
「レレイにも、それとなく注意して貰うように、お願いしているんだけどねぇ」
とは言うものの、最近のズブロッカは老師のところへ顔を見せていないようだ。
大祭典が迫ってきていて、教師さえも組合から手伝えと言われるぐらいである。僕は兎も角、聖下やヘネシーにそんな手間を掛けさせてはならない。
と、言う事情で、僕が、この問題の収拾担当になったのだ。
ある時のこと、ヘネシーさんに「面倒見がいいんですね。意外です」と笑われたが、「友達だからね」以上の理由がないのが正直なところだ。
万が一、彼がいなくなった所で、僕はアルヌスを離れる事もないし、彼が唯一の友達だという訳でもない。彼が連れ出してくれた事には感謝するけど、そこまで情に厚いタチではないので、面倒だという意志に変わりはない。
しかし、同時に、後味の悪さを感じるのだ。
さて、それとは別に僕の研究の方は、今一つパッとしない。
レレイ老師は、門の向こう側の知識を安易に使わないことを常々口にしている。僕も、その知識をコピーして手柄を立てるつもりはない。
だが、熱機関を作るには、この世界の技術力が足りない。
小さなスケールでおもちゃを作ることは、誰にだってできる事だ。
だから、僕は、もっと学術的に、これを取り扱わなければならないと考えるようになった。
熱に対する理解は、必ず学問に資する筈だ。
と、勇んでレレイ老師に尋ねると、「それは車輪の再発明」と言われてしまう。そう言う批判は、当然のこととして受け止め、その先の理由を考えていた。
そこで、僕は、魔導の力と熱機関の関係に関する体系づくりを目的とすることで、老師のゴーサインを貰った。
先ずは、水銀とガラス管を手配して、圧力計と温度計を作る事にしよう。
そして、魔法と薪や油との違いを調べ、これらの法則性について報告する。
意外なことに、魔導の力は定性的な話ばかりが論文になるが、定量的な評価はあまり行われてこなかった。
理由は、手間の割に地味で、評価されにくいからだ。
しかし、これを機械的な力と組み合わせる事は、今後、大きな潮流となるだろう。レレイ老師が、ノイマン効果とそれを組み合わせたように。
研究の事をつとつとと考えていると、ズブロッカの事を忘れてしまいそうになる。
聖下からの依頼は、問題の解決であり、彼の監視ではないが、姿を見せないでいると、少しばかり心配になるものだ。
気晴らしの散歩がてら、探しに行く事にしよう――まずは、神殿からか。
僕がこの街に来た時は、既に大祭典の準備に突入していたから、平時のアルヌスの街をまだ見たことがない。
ただ、そうした賑わいを差し引いても、活気に溢れているし、他にはない空気感がある。
その理由の一つは、自衛隊なのだろうけれど、他の都市に比べ亜人も多いし、種々雑多な職業の人が入り混じっている。
ふと、ズブロッカの言っていた、混沌を数学とする事を考えてみる。
この街の熱気は、一つ一つの質点の活動量と言う事が出来るのではないか? 質点と言えば、原子論が連想される。原子論の中には、熱を原子の一つとして数えるものもあるが、そうではなく、原子の運動量としてみたらどうだろう?
そんな事を考えながら歩いて行くと、あっという間に目的地に着いてしまった。
本来は、ズブロッカを探す散歩だったというのに、全く周囲の景色なんて気にしていなかった。
神殿の前まで来ると、ヘネシーの方から声を掛けてきた。
「あら、イエーガーさん、こんな所まで、何かご用ですか?」
聖下の話のお陰なのか、僕に対しては友好的だ。そんな彼女に対して、斯く斯く然々の部分を聞かせると、「まだいらっしゃっていませんね」と、幾らか不機嫌な答えが来た。
僕の任務は、和解ではなくてズブロッカを諦めさせると言うところにあるから、とりわけ彼を推す必要はない。だけど、それでも友人だから褒めておきたい部分は褒めておこうとする。
当然、余計にヘネシーの気分が悪くなるのは経験上分かっている――この辺のさじ加減が微妙だ。
「どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意のものであった」
ヘネシーがあの有名な言葉をそらんじる。
「どうなんだろう。動機こそが大切なのだろうか、結果の方が大切なんだろうか? それとも、善意の行方なんだろうか?」
僕は、日頃の疑問をぶつけてみた。
「エムロイは、善悪よりも動機を大切にする神です。ただ、結果に至る途上で、動機が変質して仕舞わないかと思うのです」
動機が変質した時に、最初の善意は何処にあるのだろう?
それに、地獄への道は、善意によって舗装されると言われるが、その盲目的な善意は、動機として相応しいのだろうか?
そうした話を、続けているが、当然のこととして結論は出ない。
長話をしていると、仕事に差し障りも出る。苦情が来る前に切り上げようとすると、彼女は最後にこの言葉を贈ってくれた。
「貴方を教化させるには、余程修行を積んだ司祭じゃないと難しそうですね」
最後に軽く挨拶すると、僕は神殿を後にした。
と、その直後、ズブロッカと出くわす。
何か悪い事をしたわけでもないが、非常に気まずい。
「飲みに行こうぜ!」
突発とは言え、もう少し気の利いた言葉が思いつかなかったものか……
一言も発することも出来ぬまま、僕とツレは、酒場までやって来た。いや、元々食堂か。
「ヘネシーは、お前の事を気にしているように見えたぞ」
ズブロッカは、出し抜けに切り出した。
「そんなことないよ」
彼女からは嫌われていない自信はあるが、好意があるのだと言う確信は一つとしてない。僕自身としても、確かに彼女は可愛いと思うけれど、それ以上踏み込んだ気持ちになりようがなかった。
「お前はそういう風だから、いい歳こいて、まだ童貞なんだ」
しばしば、吐き捨てるように言われる台詞だが、ここで、僕が変に意識し出したら、いよいよ状況は混迷するだろう。
否、強いて好意を否定している訳ではない。百歩譲っても、僕がそれを感じない以上、僕からアプローチしていい事などないのだろうという意識の方が強い。
ズブロッカは、何の考えもなしに、こんな話を振るような男じゃないだろう。
となれば、自分の気持ちに整理を付ける為に、そうしているのではないかと言う疑いの方が強い。その為なら、彼女から受ける印象を捏造するという事は、そんなに不自然なことではない。
「いや、お前の方こそ決断しろよ。
興味がないって言うなら、何でわざわざ神殿に行くんだよ。
今さら改宗するとかじゃないだろう?」
と、反論すると、「改宗は割と真剣に考えている」とまで答えた。
その底意が、何であるかは兎も角、改宗だけなら別にアルヌスから離れる訳ではないか。僕は、少しだけ安心した。
店の外へ顔を向けると、警務隊の子と一緒に歩いているロゥリィ聖下が目が合った。
「あら、女を口説く相談でもしているのかしら?」
彼女が歩み寄ってくると、ズブロッカは居心地の悪そうな顔をして席をずらした。聖下はそれに応え、警務隊の子に二、三業務連絡をすると、すのまま澄ました顔で席に着いた。
当然、「仕事はいいのかよ」と言う突っ込みは誰も出来なかった。
話は中断してしまったが、先の話とその憤りは、僕の中ではまだ続いていた。なので、鮮やかな流れで、その話をぶつけてみた。
「聖下、こいつが改宗するって言っているのですが」
ロゥリィ聖下もズブロッカの日頃の行いを知っていたので、「いいんじゃないの」と微笑んだ。
「でもぉ、エムロイの信者になるつもりなら、その動機はちゃんと開陳してもらわないと困るわよぉ」
ヘネシーとの話が鮮明に蘇ってくる。
「"どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意のものであった"とは、結果が重要なのでしょうか、動機なのでしょうか、それとも善意なのでしょうか?」
これに対して、ロゥリィ聖下は、悩む様子もなくさらりと答えた。
「自分に対して嘘を吐かなければいいんじゃない?
だって、他人の動機も善意も、想像でしか語れないものぉ。
人が許すかどうかではなくて、自分自身が許せるかどうかが大切なのよ。
悔いなく戦って死ねるのかどうか、本人にしか分からないわ。でも、その時、自分をすっかり偽っていては、エムロイの下に召される事はないわぁ」
人は、何かにつけて、社会の事を考えてしまいがちだ。
世の中の誤謬をなくすにはどうしたらいいかばかりを考える。しかし、それは自分がそこを乗り越る事には、驚くほど無頓着なのだ。
「エムロイは、随分と個人に目を掛けていただける神なんですね」
僕は、好意的に感じた事を、そのまま表現した。
「神と言うのは、常に個人的なものの筈なのよぉ。
"神の国はあなたがたの間にある"って言うじゃない?
神官ですら忘れてしまいがちなんだけどねぇ」
会話とエールを楽しんでいた亜神は、そこから話をズブロッカに向けた。
「それで、貴方はどういうつもりなのぉ? エムロイに帰依するとして、どうするつもりなのか、はっきりしてくれないとぉ。
あなたは、頭の回転も速いし、役に立つ人間なのだから、曖昧のままでいるのは、とても損な事よ」
蠱惑的な目つきで、眼差しを向けられた男は、どぎまぎした様子で答える。
「その……僕は、聖下の事が気になってしまって!」
男は、いつもの余裕のある態度など消し飛んでしまい、ガキのような叫び声を上げて立ち上がった。
「まぁ、落ち着け」
僕は、ズブロッカの服の裾を引っ張った。
それでも、なかなか座ろうとしない姿を見て、ロゥリィ聖下の様子が気になりだす。
彼女は、余裕のある表情で、それをにこやかに眺めて、勿体ぶって語る。
「気に入ってくれるのは嬉しいけど、そう言うのは、気の合う仲間同士で語り合うに限るものよ。
そぉねぇ。ヘネシーとか」
聖下は、僕が始めて頭を下げに行く前に、ズブロッカが怒鳴り込みに来ていたことを教えてくれた。
ズブロッカは、やはり向こう見ずな性格を秘めていたらしい。彼は、そこでも惚れっぽさを発揮して、彼女の事が気になりだしたと言う訳だ。当然、聖下はその事に気付かず、僕も気付かずにいた。
しかし、今日の互い違いになってしまったやり取りから、聖下は「その惚れっぽさは、"自分の話題に乗っかれるかどうか"に掛かっている」と、喝破したのだ。
そんな事で一々構ってもらっても困る聖下は、「ヘネシーって子は、知的好奇心の強い子だから、きっと貴方にお似合いよ」と強引に人身御供を押し付け、全てをチャラにしようとした訳だ。
目論見は、見事に成就した――が、恋に落ちた男の話なんて、あまり長々と語るべきことではない。
ヘネシーは、聖下の指示でズブロッカに会い、ズブロッカは先日の非を謝った。
不承不承だったヘネシーとズブロッカは、ロゥリィの話に及ぶと――二人とも聖下との付き合いが長いわけでもないのに――随分と長く話し込んでいたようだ。
更に大祭典では、仲良くデートを重ねた。この時、僕は子供の引率だとか言う仕事を融通したり、彼女も彼女で、友達に無理を言ったみたいだ。
周囲を犠牲にしつつも、二人はいい感じの仲になったわけで、その苦労に見合うだけ幸せになるなら、それもまたいい事かと思うようになった。
さて、これで目出度しとはならない。
最後の約束があるのだ。
幸せな三日間を過ごしたズブロッカに、僕は尋ねた。
「結局どうするんだ?」
思い切りのいい男だから、案外ズバッと答えを出してくれると信じていたが、沈痛な面持ちで黙り込んだ。
「数学は、紙とペンがあれば出来る学問だ。修道士になっても研究できるだろうさ。最初の数学者は司祭だったというし」
僕自身にとっては、彼は大切な友達だから、アルヌスに残ってほしいと思っている。だが、彼のヘネシーとの交際が真剣であるなら、約束を守った方がいいに決まっている。
むしろ、聖下がわざわざ目を掛けたのも、そこまで薄情な男じゃないと見込んだからに他ならない。
この事は、考えれば考えるほど難儀な問題である。
彼自身、本当にしたい事は、何だったのかと言う問題や、何処までヘネシーを好いているかと言う問題、また周囲に掛けた迷惑や、聖下の気配り、そうした問題までないまぜになってしまった所で、本当の意志と言うものを、自分自身が気付けるだろうか?
それこそが、究極の問題ではある。エムロイの使徒として、大変重たい宿題を課せられたものだ。
これから、あの日まで、彼の葛藤は、想像に想像を重ねても余りある。
友人として出来る事は何だろうかと、色々考えてしまうが、僕如きによきアドバイスが出来るとは思わなかったし、プレッシャーを与えてもいけないと言う思いから、僕からかける言葉はなかった。
聖下やヘネシーには相談しただろうか? やはり、僕は薄情なのだろう。
アルヌスを去る黒ゴス集団の隊列の中に、一人だけ浮いた存在が混じっている。
数論の本を携えた男は、共にフェブロン神殿を目指すだろう。
その男から統計学の教育を受けた司祭が、戦地で多くの命を救う事になるが、それはまた別の話である。
あとがき
アニメ放送開始時に、割と酷評されたのを目にしたもので、逆に興味を持ってしまったという入り方をしました。
外伝3まで読んで、4が手に入らないので、そこまでの知識と言う事でご容赦を……
特地の人間は、お酒の名前が多いってんで、ヘネシーとズブロッカ、イエーガーマイスターを突っ込みました。イエーガーが修士=マスターなんで、その辺がギャグになっております。まぁ、ドイツ語でもマスターはマスターなんでしょうけど。
フェブロン神殿に侍祭とか言う叙階があるかどうか分かりませんが、司教、司祭、助祭以外は見習いだけってのもややバランスに欠けるかなってんで入れました。
所々挿入される聖句は、韓非子とかマキアヴェッリやらクラウゼヴィッツやら。(今入ってなくてもそのうち入れる)
外伝でモーイが語った「農夫の妻の話」ってまんま韓非子なんで、この辺の思想なら普通に受け容れられるに違いないって、勝手に判断しました。
蒸気タービンは、古代ローマで既に考案されていたりしますが、とりわけ何かの動力になった訳ではない模様。恐らく、トルクを得るためには機械的強度が足りなかったんでしょうね。
「数学は科学の王女であり~」は、カール・フリードリヒ・ガウスの言葉。
「王の数学者にして~」は、「王の画家にして画家の王」(ルーベンスのこと)をもじった。
あと、「どれほど悪い結果に終わったことでも~」は、作中にも出てきますね。
「最初の数学者は司祭」と言うのは適当。まぁ、年貢とかの計算もあるし、時間もあるから、その可能性もあるだろうなぁと。聖職は最初の知識層だからねぇ。
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